2026年9月12日土曜日

日本文学科への入り口はさまざま

2026年度、私はサバティカルの機会を賜りました。しかし、学部の卒業論文指導と大学院の授業は、大学から許可をもらい、開講しています。

卒業論文指導の学生に、「いつから『萬葉集』を研究するようになったのですか」と尋ねられました。その学生は、私が、大学入学、さらさかのぼって高校生のときから、『萬葉集』一筋と思ったのかもしれません。私の卒業論文ゼミの学生は、どちらかというと、3年生までいろいろなことに関心を持ち、4年生で卒業論文のテーマを決める人が多いようです。その学生も、少し心配になって、このような質問をしたのかもしれません。

私が『萬葉集』を研究するようになった経緯は、このブログの2024年12月の記事「『萬葉集』への道」に書いた通りで、出発点は古墳や古代史など、「古代」への関心からでした。

さまざまな大学の日本文学科に進学した学生たちの体験記を読むと、日本文学科に進学したのは、高校時代に「国語」が得意で(けれども、外国語は少し苦手)、好きな文学を大学でとことん研究したいと思った、ということが書かれています。もちろん、それもよいと思います。

けれども、日本文学科への入り口はさまざまと思います。私の卒業した大学では、3年生で学科が決まります。ぎりぎりまでどの学科に進学するのがよいか悩みました。自分が研究したいと思っていたことと(神話的思考、歴史の中を生きる人間、歌謡史、身体表現〈そのころ、出身地の神楽の演者もやっていました〉など)、完全に一致する学科はありませんでした。

何人かの先生に相談に行きました。文化人類学の先生は、私の神話的思考へ関心の中心が日本にあることを言うと、文化人類学からそれを研究することは難しいけれども、『萬葉集』ならば豊富な材料がある、とアドバイスしてくれました。

その後、授業を履修していた国文学科の先生に相談に行ったところ、「君は国文学科に来るのですね」といきなり言われ、「相談」も何も……。国文学科への進学が決まってしまいました。

進路が決まり、有志の同級生が、国文学科への進学者一覧表を作るため、情報を集め始めました。その記入用紙の「専攻」の欄には、私は「日本精神史」と書きました。「日本精神」の歴史ではなく、そのころ読んでいた平野仁啓の『古代日本人の精神構造』(未来社、1966)の言う、日本の「精神史」です。「上代文学」「近代文学」のような、“時代別文学研究”というフレームワークに自分が組み込まれることに、抵抗しました。

国文学科には、「自主ゼミ」という、学生が自分たちで研究を進める制度がありました。文化人類学の先生のアドバイスもあって、『萬葉集』を研究対象とした私は、「上代文学」の自主ゼミに所属しました。しかし、「自主」ということばを文字通りに取った私は、伝説・信仰に関心ある友人らを語らって、時代別専攻に関係ない「自主ゼミ」を立ち上げ、『梁塵秘抄』を輪読することにしたのでした(私たちは「歌謡派」と呼ばれていたようです)。

先生の指導する『萬葉集』の本ゼミでは苦戦しました。文学好き、萬葉好きというところから研究に入ったのではないため、『萬葉集』の「文学的読み」がなかなかできません。思い余って、先生に電話をして、どうすれば読めるようになるか聞きました。「斎藤茂吉の『萬葉秀歌』を読みなさい」というのが先生の答え。

『萬葉秀歌』にはその後多くを学びましたが、やはり茂吉の感性は、私には合いません。むしろ、窪田空穂や折口信夫の鑑賞のほうに親しみを覚えました。ただ、「文学的読み」、さらに「注釈」の面白さは知ることできましたし、その後の私の研究にとって大きな力となりました。しかし、文学好き、萬葉好きでないところから出発した私は、「文学的読み」や「注釈」が本当に“厳密で客観的”なのかについて漠然とした疑問も感じていました(それが、のちに『萬葉学史の研究』へとつながってゆきます)。物語や小説の世界に没入し、あたかも現実世界のことのように、登場人物たちを論評し合う同級生たちの会話にも、ついてゆけませんでした。

つい昔話になってしまいましたが、日本文学科への入り口はさまざまであると思います。文学的表現を通じて哲学・芸術・歴史を考えるというのでもよいでしょう。日本文学と海外文学を照らし合わせながら読み解く、日本文学を海外に紹介したい、さらには日本文学を通じて国際貢献をしたい、といった〈文学交流〉への関心からでもよいでしょう。要は、自分の関心のあり方を大切にすることです。そして、日本文学科はそれを受け止めてくれる間口の広さがあり、少数でも仲間がいる(私にとっての「歌謡派」の友人たちのような)ということです。


2026年5月1日金曜日

文学理論のこと

 

小説の中のチェコの大学院生たち

チェコのプラハ出身の作家アンナ・ツィマの『シブヤで目覚めて』(阿部賢一、須藤輝彦訳、河出書房新社、2021)に、興味深い場面があります。主人公のクリスティーナは、プラハの大学で日本学を専攻する修士課程の大学院生。図書室で読んだ「川下(かわしも)清丸」の短編推理小説「分裂」に惹きつけられている。日本の文学者・松下太郎の講演会でのコメントで強烈な印象を残した、博士課程の大学院生ヴィクトール・クリーマを、講演後にカフェに誘う。そのとき、次のような会話を交わします。

「専攻は?」とクリーマ。私がカフェに誘ったことは聞き流していた。
「日本学。修士の二年」と私。「さっき、松下先生の講演に一緒に出てた。落ちたペンを渡したでしょ。」
クリーマは煙草を口から離す。
「修論のテーマは?」
「日本のミステリー小説」と私。「推理小説、それにミステリー要素のある作品」
「で、方法論は? 語りの分析は?」
もう、警察の取り調べを受けているよう。
「方法論? まだわからない。始めたばかりで、提出は夏だから。まだ九か月ある」
「そうか、じゃあ、ごめん」クリーマは吸い殻を灰皿に入れて、その場を去った。(p. 65)

クリスティーナはやがてクリーマに、情報の少ない「川下清丸」について調査の助力を求めます。川下の小説「作品」から、川下の伝記的事実を探ろうするクリスティーナに対して、クリーマはロラン・バルトの〈作者の死〉というエッセイを聞いたことはないのか、と尋ねます。クリスティーナはそれを知りませんでした。その後、クリスティーナはクリーマと対等に議論できようになるため、文学理論を学ぼうと思い、図書室でトドロフの『散文の詩学』―多くの学生が手にしてボロボロになっている―を読み始めますが、「数秒と経たないうちに、頭が爆発しそうに」(p. 105)になります。しかし、クリスティーナはカバン10キロを超える、文学理論の本を家に持ち帰り、それらと格闘し始めます。

日本で日本文学を研究する日本人の大学院生が、下級生に「方法論は? 語りの分析は?」と尋ねることは、あまりないように思います。「あの先行文献は読んでいますか?」と聞くことが一般的でしょう。クリーマが並外れて文学理論に通じた人物として設定されているため、このような問いを発したと見ることもできるかもしれません。

アメリカ・ヨーロッパの欧州文学研究では

しかし、それだけではないようです。アメリカの英文学・比較文学研究者のジョナサン・カラーの『1冊でわかる 文学理論』(荒木映子、富山太佳夫訳、岩波書店、2003)が、理論がどんどん増えてゆくものであることを指摘し、次のように述べています。

[…]理論は恐ろしげなものとなり、たえず自分を目立たせるための手段にもなる。「えっ? ラカンを読んでいないの! 語る主体の鏡像的な構成を云々しないで、抒情詩についての語るの?」とか、「フーコーの説明したセクシュアリティの援用とか、女の身体のヒステリー化とか、ガヤトリ・スピヴァックの宗主国的主体の構築におけるコロニアリズムの役割についてものとかを使わないで、ヴィクトリア朝の小説について書けるの?」とか。時には理論がなじみのない分野の難解な本を読むことを強制し、ひとつの課題が終わったかと思うと、ひと休みどころか、さらに難解な仕事を押しつけてくる悪魔の宣告となることもある(「スピヴァック? へえ、でもベニタ・パリーのスピヴァック批判と、スピヴァックからの返答を読んだ?」)。(pp. 23–24)

クリーマのような問いかけをすることは、アメリカ・ヨーロッパで、欧州文学を研究する人々の間では普通のように見えます。理論を学んで、ケーススタディとして文学作品に応用するという研究方法が、アメリカ・ヨーロッパでは、欧州文学研究だけではなく、日本文学研究でも基本となっていることがうかがえます。

日本文学研究者の場合

こうした理論を基本とする研究方法に対して、日本の日本文学研究者の姿勢は大きく二つに分かれるようです。一つは、書誌的研究・本文批判・語釈、および鑑賞・批評を中心とする「近代的国文学」の研究方法を守り、理論にはあまり関わらないという姿勢、もう一つは、ヨーロッパ・アメリカの文学理論の動向を追かけ、日本文学に応用するという姿勢です。

どちらにも理由があると思います。書誌的研究・本文批判・語釈、および鑑賞・批評を丹念に積み上げてきた「近代的国文学」からすると、文学理論を応用する研究はいかにも乱暴に見えます。また、はやりすたりのある文学理論に依拠することは、不安定に思えます。一方、文学理論を用いる側には、日本文学研究を「世界標準」(括弧付き)で進めたいという強い思いがあります。実際、文学理論に通じていないと、アメリカ・ヨーロッパの日本文学研究者に相手されないことがあります。日本文学に関する論文も、英語論文の場合、依拠した理論を明示しないと、英語ジャーナルの査読で厳しい指摘を受けます。

以前より、これら両極の姿勢と異なる道はないものかと思っていました。日本文学研究が世界的なものに広がっている今日、やはり文学理論を学ぶことも必要に思います。しかし、ひたすらヨーロッパ・アメリカの文学理論を追いかけることもどうか、とも思います。中国、韓国、インドなどの文学研究を少し読むことがありますが、それぞれがヨーロッパ・アメリカの文学理論を追いかけ、それを自国の文学に応用しています。横に目を向ける、ということは、まだあまり行われていないようです。

中国の文学研究者・銭鍾書

こうした思いを抱いている私にヒントを与えてくれたのが、張隆溪氏『比較から世界文学』(鈴木章能訳、水声社、2018)です。古書店の書棚からこの本を取り出して、ページをめくっていると、「銭鍾書と世界文学」という章があって驚きました。「銭鍾書」という中国の文学研究者の名前は、以前に中国から留学してきた大学院生に教えられて、知っていました。共感覚を「通感」というタームで捉え、近代の認知心理学とは少し異なる、詩における感覚表現の研究をしていることに興味を持ち、銭鍾書についてもっと知りたいと思っていました。

銭鍾書は、1910年生まれで1998年没。この本によれば、1985年に、ジャック・デリダ、ウンベルト・エーコ、ジェラール・ジュネット、ヴォルフガング・イーザー、ロベルト・ヴァイマンとともに米国現代語学文学協会(MLA)の名誉会員に選ばれています。張隆溪氏は、「しかし、そうした高い評価にもかかわらず、銭鍾書の名は、とくに同じ年に選出された前述の米国現代語学文学協会名誉会員の面々に比べて、西洋では一般的に知られていない」(p. 149)と言いますが、日本でも一般的に知られていません。

この本によれば、銭鍾書の文学研究の基本は、中国古典詩を、西洋の哲学・思想・文学・文学論・芸術論と、中国古典を驚くほど広く見渡し、その共通性に注目しながら注釈してゆくものであるとのこと。その成果まとめた、二つの批評書『談芸録』と『管維編』にまとめています。これらが西洋の読者にとって難解である理由を、張隆溪氏は次のように説明しています。

[…]用いられている古い中国語の難しさを別とすれば、まさにその形式にある。この形式は伝統的な注釈の形式で、理論形式にこれといった秩序がなく、とりとめもないと言うのがふさわしい断章の集合体となっている。銭が緩やかに繋がった地の断章形態を用いた理由は、個々の言葉や思想の具体的な知識の方が、統一的理論体系や抽象的理論よりも重要であるという強い信念があったためである。銭によれば、どのような思想大系もいつかは瓦解するものであり、そうなれば、精巧で秩序立った立派な構造は瓦解と化すが、巨大な建物が崩れた後に石材や木材がまだ使える状態で残るように、ばらばらになった個々の知の価値や妥当性は失われない。(p. 163)

もちろん銭鍾書は、ヨーロッパ・アメリカの文学理論にも通じていました。その上で、統一的理論体系ではなく、注釈という断章形式を意識的に選んだのです。まだ、『談芸録』と『管維編』を読んでいないので、確実なことは言えませんが、私には銭鍾書が自分自身を漢代以来の「中国文献学」の伝統の中に位置づけていたように思われます。

銭鍾書から学んだこと

このような銭鍾書の文学研究から、二つのことが学べます。銭鍾書の文学研究は、非西洋世界が西洋の知と切り結んだ貴重な足跡です。日本を含む、他の非西洋世界において、そこから汲み取ることができるものが多いと思います。日本の文学理論的研究で銭鍾書が引かれることはほとんどありませんが、一方、張隆溪氏『比較から世界文学』でも、日本の文学理論家への言及はありません。この「縦割り構造」を揺り動かすためには、情報の収集・発信・交換が重要です。

もう一つは、銭鍾書が、断章形式をとったことです。今日、「論文」や「研究書」という形で文学理論や、それを応用した研究を発表することが常識となっています。しかし、それはヨーロッパ・アメリカで「構築された制度」に外なりません。前近代の日本でも、古典研究は、注釈という形で発表されていました。中世の萬葉学者の仙覚も、近世の萬葉学者の契沖も、自分の思想を、注釈を通して表現しています。もちろん、論文や研究書を棄てて、注釈に回帰せよ、と主張するつもりはありません。それに、「近代的国文学」では、注釈は思想を表現するものではなくなっています。しかし、論文や研究書で示される文学理論というもの自体が、歴史的産物であることを意識していてもよいのかもしれません。