2026年5月1日金曜日

文学理論のこと

 

小説の中のチェコの大学院生たち

チェコのプラハ出身の作家アンナ・ツィマの『シブヤで目覚めて』(阿部賢一、須藤輝彦訳、河出書房新社、2021)に、興味深い場面があります。主人公のクリスティーナは、プラハの大学で日本学を専攻する修士課程の大学院生。図書室で読んだ「川下(かわしも)清丸」の短編推理小説「分裂」に惹きつけられている。日本の文学者・松下太郎の講演会でのコメントで強烈な印象を残した、博士課程の大学院生ヴィクトール・クリーマを、講演後にカフェに誘う。そのとき、次のような会話を交わします。

「専攻は?」とクリーマ。私がカフェに誘ったことは聞き流していた。
「日本学。修士の二年」と私。「さっき、松下先生の講演に一緒に出てた。落ちたペンを渡したでしょ。」
クリーマは煙草を口から離す。
「修論のテーマは?」
「日本のミステリー小説」と私。「推理小説、それにミステリー要素のある作品」
「で、方法論は? 語りの分析は?」
もう、警察の取り調べを受けているよう。
「方法論? まだわからない。始めたばかりで、提出は夏だから。まだ九か月ある」
「そうか、じゃあ、ごめん」クリーマは吸い殻を灰皿に入れて、その場を去った。(p. 65)

クリスティーナはやがてクリーマに、情報の少ない「川下清丸」について調査の助力を求めます。川下の小説「作品」から、川下の伝記的事実を探ろうするクリスティーナに対して、クリーマはロラン・バルトの〈作者の死〉というエッセイを聞いたことはないのか、と尋ねます。クリスティーナはそれを知りませんでした。その後、クリスティーナはクリーマと対等に議論できようになるため、文学理論を学ぼうと思い、図書室でトドロフの『散文の詩学』―多くの学生が手にしてボロボロになっている―を読み始めますが、「数秒と経たないうちに、頭が爆発しそうに」(p. 105)になります。しかし、クリスティーナはカバン10キロを超える、文学理論の本を家に持ち帰り、それらと格闘し始めます。

日本で日本文学を研究する日本人の大学院生が、下級生に「方法論は? 語りの分析は?」と尋ねることは、あまりないように思います。「あの先行文献は読んでいますか?」と聞くことが一般的でしょう。クリーマが並外れて文学理論に通じた人物として設定されているため、このような問いを発したと見ることもできるかもしれません。

アメリカ・ヨーロッパの欧州文学研究では

しかし、それだけではないようです。アメリカの英文学・比較文学研究者のジョナサン・カラーの『1冊でわかる 文学理論』(荒木映子、富山太佳夫訳、岩波書店、2003)が、理論がどんどん増えてゆくものであることを指摘し、次のように述べています。

[…]理論は恐ろしげなものとなり、たえず自分を目立たせるための手段にもなる。「えっ? ラカンを読んでいないの! 語る主体の鏡像的な構成を云々しないで、抒情詩についての語るの?」とか、「フーコーの説明したセクシュアリティの援用とか、女の身体のヒステリー化とか、ガヤトリ・スピヴァックの宗主国的主体の構築におけるコロニアリズムの役割についてものとかを使わないで、ヴィクトリア朝の小説について書けるの?」とか。時には理論がなじみのない分野の難解な本を読むことを強制し、ひとつの課題が終わったかと思うと、ひと休みどころか、さらに難解な仕事を押しつけてくる悪魔の宣告となることもある(「スピヴァック? へえ、でもベニタ・パリーのスピヴァック批判と、スピヴァックからの返答を読んだ?」)。(pp. 23–24)

クリーマのような問いかけをすることは、アメリカ・ヨーロッパで、欧州文学を研究する人々の間では普通のように見えます。理論を学んで、ケーススタディとして文学作品に応用するという研究方法が、アメリカ・ヨーロッパでは、欧州文学研究だけではなく、日本文学研究でも基本となっていることがうかがえます。

日本文学研究者の場合

こうした理論を基本とする研究方法に対して、日本の日本文学研究者の姿勢は大きく二つに分かれるようです。一つは、書誌的研究・本文批判・語釈、および鑑賞・批評を中心とする「近代的国文学」の研究方法を守り、理論にはあまり関わらないという姿勢、もう一つは、ヨーロッパ・アメリカの文学理論の動向を追かけ、日本文学に応用するという姿勢です。

どちらにも理由があると思います。書誌的研究・本文批判・語釈、および鑑賞・批評を丹念に積み上げてきた「近代的国文学」からすると、文学理論を応用する研究はいかにも乱暴に見えます。また、はやりすたりのある文学理論に依拠することは、不安定に思えます。一方、文学理論を用いる側には、日本文学研究を「世界標準」(括弧付き)で進めたいという強い思いがあります。実際、文学理論に通じていないと、アメリカ・ヨーロッパの日本文学研究者に相手されないことがあります。日本文学に関する論文も、英語論文の場合、依拠した理論を明示しないと、英語ジャーナルの査読で厳しい指摘を受けます。

以前より、これら両極の姿勢と異なる道はないものかと思っていました。日本文学研究が世界的なものに広がっている今日、やはり文学理論を学ぶことも必要に思います。しかし、ひたすらヨーロッパ・アメリカの文学理論を追いかけることもどうか、とも思います。中国、韓国、インドなどの文学研究を少し読むことがありますが、それぞれがヨーロッパ・アメリカの文学理論を追いかけ、それを自国の文学に応用しています。横に目を向ける、ということは、まだあまり行われていないようです。

中国の文学研究者・銭鍾書

こうした思いを抱いている私にヒントを与えてくれたのが、張隆溪氏『比較から世界文学』(鈴木章能訳、水声社、2018)です。古書店の書棚からこの本を取り出して、ページをめくっていると、「銭鍾書と世界文学」という章があって驚きました。「銭鍾書」という中国の文学研究者の名前は、以前に中国から留学してきた大学院生に教えられて、知っていました。共感覚を「通感」というタームで捉え、近代の認知心理学とは少し異なる、詩における感覚表現の研究をしていることに興味を持ち、銭鍾書についてもっと知りたいと思っていました。

銭鍾書は、1910年生まれで1998年没。この本によれば、1985年に、ジャック・デリダ、ウンベルト・エーコ、ジェラール・ジュネット、ヴォルフガング・イーザー、ロベルト・ヴァイマンとともに米国現代語学文学協会(MLA)の名誉会員に選ばれています。張隆溪氏は、「しかし、そうした高い評価にもかかわらず、銭鍾書の名は、とくに同じ年に選出された前述の米国現代語学文学協会名誉会員の面々に比べて、西洋では一般的に知られていない」(p. 149)と言いますが、日本でも一般的に知られていません。

この本によれば、銭鍾書の文学研究の基本は、中国古典詩を、西洋の哲学・思想・文学・文学論・芸術論と、中国古典を驚くほど広く見渡し、その共通性に注目しながら注釈してゆくものであるとのこと。その成果まとめた、二つの批評書『談芸録』と『管維編』にまとめています。これらが西洋の読者にとって難解である理由を、張隆溪氏は次のように説明しています。

[…]用いられている古い中国語の難しさを別とすれば、まさにその形式にある。この形式は伝統的な注釈の形式で、理論形式にこれといった秩序がなく、とりとめもないと言うのがふさわしい断章の集合体となっている。銭が緩やかに繋がった地の断章形態を用いた理由は、個々の言葉や思想の具体的な知識の方が、統一的理論体系や抽象的理論よりも重要であるという強い信念があったためである。銭によれば、どのような思想大系もいつかは瓦解するものであり、そうなれば、精巧で秩序立った立派な構造は瓦解と化すが、巨大な建物が崩れた後に石材や木材がまだ使える状態で残るように、ばらばらになった個々の知の価値や妥当性は失われない。(p. 163)

もちろん銭鍾書は、ヨーロッパ・アメリカの文学理論にも通じていました。その上で、統一的理論体系ではなく、注釈という断章形式を意識的に選んだのです。まだ、『談芸録』と『管維編』を読んでいないので、確実なことは言えませんが、私には銭鍾書が自分自身を漢代以来の「中国文献学」の伝統の中に位置づけていたように思われます。

銭鍾書から学んだこと

このような銭鍾書の文学研究から、二つのことが学べます。銭鍾書の文学研究は、非西洋世界が西洋の知と切り結んだ貴重な足跡です。日本を含む、他の非西洋世界において、そこから汲み取ることができるものが多いと思います。日本の文学理論的研究で銭鍾書が引かれることはほとんどありませんが、一方、張隆溪氏『比較から世界文学』でも、日本の文学理論家への言及はありません。この「縦割り構造」を揺り動かすためには、情報の収集・発信・交換が重要です。

もう一つは、銭鍾書が、断章形式をとったことです。今日、「論文」や「研究書」という形で文学理論や、それを応用した研究を発表することが常識となっています。しかし、それはヨーロッパ・アメリカで「構築された制度」に外なりません。前近代の日本でも、古典研究は、注釈という形で発表されていました。中世の萬葉学者の仙覚も、近世の萬葉学者の契沖も、自分の思想を、注釈を通して表現しています。もちろん、論文や研究書を棄てて、注釈に回帰せよ、と主張するつもりはありません。それに、「近代的国文学」では、注釈は思想を表現するものではなくなっています。しかし、論文や研究書で示される文学理論というもの自体が、歴史的産物であることを意識していてもよいのかもしれません。

2025年9月15日月曜日

環境と日本文学研究

 

2025年9月3日(水)~5日(金)に開催された、ノルウェーのオスロ大学主催のEco-Emotions on Waterに参加しました。

オスロ大学人文学部の独自の日本研究と環境学とを知り、ぜひ交流を深めたいと思い、勤務先の青山学院大学とオスロ大学の間で、2023年に交換留学協定を結びました。そして、オスロ大学の研究者や学生の皆さんと直接交流する機会を持ちたいと思っていたところ、スカンジナビア・ニッポン ササカワ財団からの研究補助を得て、渡航が叶いました。

オスロ大学の窓口となったくださったアイケ・ピーター・ロッツ氏より、私の渡航予定の時期に、Eco-Emotionsの年次大会が開かれることを知らされました。参加するならば、聴くだけでなく発表し、『萬葉集』の環境学的視点からの研究成果を紹介したいと思いました。

「水」というテーマは、7月12日(土)に青山学院大学で開催したAGU環境学シンポジウム「バイオリージョナリズム[生命地域主義]を手がかりに 水、環境と開発を考える―環境をめぐる人文科学・社会科学・自然科学の対話―」の柱の一つでした。私は、こちらでは、「古代都市・平城京の水環境」というタイトルで発表しました。「国文学」の従来の「自然観」の研究ではなく、〈環境〉という視点からの研究が必要であることを説き、平城京の主要河川・佐保川から、現代都市の水環境を再考する手がかりを提案しました。

〈環境〉とは、「外界」そのものを意味するのではなく、生物の「主体」の存在や活動に、何らかの影響を与える事物の条件、つまり生物の生活に関わる範囲の「外界」を指します。そして、〈環境〉と生物の「主体」は相互に影響を与え合います。その中でも人間は、〈環境〉に自らを適応させたり、〈環境〉に影響を与えるばかりではなく、言語による〈環境〉に対する精緻な認識を基礎に、積極的に〈環境〉を改変する特異な生物です(〈環境〉の定義は、沼田眞「環境とは何か―環境観―」〈『図書』552、1992・12〉、鷲谷いづみ『自然再生 持続可能な生態系のために』〈中公新書、2004〉をもとに、小川(新姓、小松)「作為された自然―高木市之助の環境論〈文学と環境〉―」『古代文学の創造と継承』〈新典社、2011、pp. 601-602〉にまとめたものです)。

Eco-Emotions on Waterでは、Rediscovering the Power and Soundscape of Urban Rivers: A Literary Perspective from Ancient to Modern Japanと題して、佐保川だけではなく、『萬葉集』に詠まれた飛鳥(あすか)川、吉野川にも考察を拡げ、萬葉歌人たちに好んだ水景観を明らかにし、それをもとに、大岡昇平『少年』の宇田川、田口ランディ『モザイク』の渋谷川を解読した結果を発表することにしました。現代小説を加えたのは、北欧では『萬葉集』はあまり知られておらず、現代小説に論を及ぼすことによって、聴き手に、『萬葉集』の水環境を遠い過去のことではなく、現代の問題として考えてもらい、議論を引き出しやすくしたいと考えたからです。

ちなみに発表の際に、聴衆に『萬葉集』を知っている人を聞いたところ、ふたりでした。一人はオスロ大学の日本文学研究者のレベッカ・スーター氏。ヨーロッパの日本文学研究者の圧倒的多数は近現代文学を専門としています。

「水」をめぐる文化的感情についての国際学会からは、日本学やアジア研究の国際学会とは大きく異なる刺激を得られました。[以下はFacebookにも書いたことです]

Eco-Emotionsは、気候変動・環境危機をテーマとしています。初日のアイスランドの作家アンドリ・スナイル・マグナソン氏(8月に朱位昌併氏訳『氷河が融けゆく国・アイスランドの物語』〈青土社〉が刊行)の講演で、アイスランドの氷河融解が話題となったように、北欧の人々にとって気候変動・環境危機は極めて身近な、切迫した問題となっていることが感じられました。北欧の諸国とは違い、日本では原生自然はほとんど残っていません。日本の自然の多くは人間の手が入っています。そのせいもあって気候変動・環境危機に意識が向かいにくいところがあるのかと思いました。私の発表も気候変動・環境危機にまでは及んでいませんでした。大きな課題をもらったように思います。

また、「水」をめぐる世界の文学や、その研究状況についても知ることができました。この学会の中心メンバーであるステフカ・G・エリクセン氏は中世ノルウェー―アイスランド文学の写本研究者。それだけに中世ノルウェー―アイスランド文学の「水」についての発表が多くありました。また、デンマークの詩人インガー・クリステンセン、ロシアの絵本『ディンカ Dinka』のことも知りました。シリアやイランの「水」についての講演や発表も興味深く聞きました。よく引用される本としては、Bodies of Water: Postuman Feminist Phenomenology (Envioronmental Cultures)がありました。

日本文学についてのセッションWater in Japanese Literatureもありました。昭和28年台風13号についての杉浦明平のルポルタージュについての日本史研究者のエマ―・オドワイヤー氏の研究発表は興味深いものでした。台風被害を詳細に描くこのルポルタージュは、三島由紀夫に批判されたとのこと。日本研究の国際学会ではなかなか出会えない研究者と面識を得ることができたのもの収穫です。

共通の土台のもと、日本文学を通じて人間の普遍的問題に貢献する貴重な実地体験をさせてもらいました。[ここまでがFacebookに書いたこと]

その一方で、文学からの考察だけでは、気候変動・環境危機に対応できないことをも強く感じました。文学研究は、〈環境〉の改変が、人間の文化的感情にどのような影響を与えているかを示すことができます。また、気候変動・環境危機に対応するために、〈環境〉に対する考え方を大きく変える必要があることを力強く訴えることができます。たとえば、水力発電所の対する文化的感情がどのように変化していったかを丁寧にたどった研究発表は興味深いものでした。

しかし、その水力発電所がなぜ建設され、どのような仕組みとなっているか、そして、今後、水力発電所をどのようにすればよいのかについては、自然科学の知識が必須です。文学研究の側も、自然科学(生態学はもちろん、工学・農学も)の知識をある程度身に付け、自然科学研究者と連携してゆくことが不可欠と思いました。

もちろん、日本文学研究から、アイスランドの氷河融解に関する自然科学的研究に一足飛びに向かうということは困難ですし、また方向が違うように思います。日本で蓄積されてきた生態学、水文学、流域環境学などから学べることが多くあります。Eco-Emotions on Waterの私の発表についても、事前準備の段階で、水草の研究者から、飛鳥川、吉野川、佐保川の川床を形成する岩石の性質の違いに注目することの重要性を教えられました。

AGU環境学シンポジウムで共通の土台としたバイオリージョナリズム[生命地域主義]からは、いきなり〈大きな物語〉に向かうのではなく、自分のこととして感じられる〈環境〉についての〈小さな物語〉を語ること、そして、その〈小さな物語〉を、川の流域(上流・下流)、さらに、より広いリージョン(地域)に沿って重ね合わせてゆくことが大切であることを学びました。もちろん、その〈小さな物語〉は、人によっては、日本でなくともよいと思います。AGU環境学シンポジウムでは、東南アジアやアフリカの地域を自分のこととして考えて来た社会科学者に熱意に心打たれました。私の場合、これまでフィールドとしてきた日本(のいくつかの地域)がまず、自分のこととして考えられる場所です。

AGU環境学シンポジウム、そしてEco-Emotions on Waterに参加することで、今までぼんやりしていた、自分が取り組むべき課題が鮮明になってきたように思います。

2025年6月4日水曜日

学会大会の開催方法について思うこと

 2024年度に勤務先の少し重い仕事から解放されて、学会大会に行くようにしています。日本文学の学会の開催方法は、土曜日に講演会、日曜日に研究発表会が一般的です。地方での大会の場合には1泊(また前日から2泊)して、両日参加するようにしています。しかし、東京での開催の場合は、2日続けて参加するのは体力的にも精神的にも厳しいものを感じます。

かつては学会大会に参加すると月曜日に休みをとることができました。しかし、今では15回の授業確保のため(補講はなるべく避けたい)、月曜日を休みにすることができません。授業をしながら、大学のさまざまな業務をこなし、その他に研究に関わる仕事もしていると、土日は貴重な休養日となります。

特に日曜日の研究発表会は長時間であることが多く、すべて聞くと疲れ切ったまま、月曜日からの通常の仕事に戻ることになります。

そこで、〈金曜日の夕方に講演会、土曜日に研究発表〉という開催方法もあってもよいのではないかと思います。

海外出身の研究者は、日曜日は家族と過ごす時間にしています。海外の学会大会は平日に開催されることが多いようです。この開催方法にすれば、海外出身の研究者や海外からの研究者を始め、研究発表会にエントリーする若手やそれを聞きに来る研究者も増えるのではないかと思います。

日曜日一日でも休みがとれるということであれば、本当に助かります。


2025年3月21日金曜日

研究と編集

 2018年12月に研究誌『戦争と萬葉集』を刊行するあたりから、本格的に編集の仕事する機会が増えています。以下のような本が、私が編集を担当したものです。

・青山学院大学文学部日本文学科編『留学生のための日本文学入門』(元版の私家版、2017年。のちに和泉書院、2021年)、

・同『文学交流入門』(武蔵野書院、2023年)

・プロジェクト「青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち―交流の歴史とその未来のために―」編集・発行『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』(2024年)

・青山学院大学文学部日本文学科・復旦大学外国語言文学学院日語語言文学系主催国際シンポジウム「日本文学の翻訳・翻案・アダプテーション―中国からの視点―」に基づく論集(2025年刊行予定)

こうした編集の最初の出発点は、『国文学』の特集「万葉集―その編集作業と多声性」(第49巻第8号、2004年7月)について、學燈社の編集者から助言を求められたことであったように思います。そして、編集を強く意識したのは、『国文学』の臨時増刊号「文字のちから―写本・デザイン・かな・漢字・修復―」(第52巻第10号、2007年8月)であったと思います。學燈社の編集者から、今度の臨時増刊号は「文字」で行きたい、とテーマを提示され、構想と執筆者の探索を依頼されました。責任の重さに押しつぶされそうになって、帰路の足取りが重かったことを今も覚えています。

とはいえ、『国文学』のこのふたつの特集から、その道の専門家に執筆を依頼し、その文章を読むことの楽しさを覚えました。依頼は自分が面識のある人に限りません。本や論文を読み、ぜひこの人にと思う人には、可能な限り手を尽くしてコンタクトをとりました。「文字のちから」は、日本古代から近代まで、文学だけでなく写経や筆記具、地域に西洋・中国にも及びます。編集者を通じて、執筆の内諾が伝えられると、本当に嬉しく、心躍りましたました。今でも執筆者の多くは、私が依頼主であったことに気づいていないようです。

研究を進めてゆくと、時代・領域・分野を超えて、知りたいことがどんどん広がってゆきます。しかし、自分一人の力ではそのすべてをカバーすることは不可能です。そこで、その時代・領域・分野の専門家に教えてもらう、というのが、私の編集の基本です。それはまた、私の編集の原動力となっています。

ただし、その時代・領域・分野について、自分が全く知らずに依頼することはありません。自分もある程度の知識を身に付け、また、自分の萬葉集研究・日本文学研究との関わり方を考えます。何よりも、自分が本当に知りたいことは何かを明確にしておくことが大切と思っています。ですから、その道の専門家に「丸投げ」するということはしません。

と言うと、自分が鵜飼の「鵜匠」で、執筆者は「鵜」のようです。確かにそういう面はあるかもしれません。しかし、私の場合、「鵜匠」は、あくまでも「鵜」に教えを乞う存在です。

自分の知りたいことを専門家に書いてもらい、その教えを受ける、という編集も、今後研究を広げてゆくための一つの重要な方法であると思います。そして、編集をいわば「口実」に、これまで面識のなかった研究者との交流の輪が広がることは、何物にも代えがたいことです。

2024年12月27日金曜日

『萬葉集』への道

 

冬休みに入り、書店でじっくり本を見る機会ができました。日本古典文学の棚も見るのですが、『萬葉集』について、若い人が強く心惹かれるような本が少ないことを、寂しく感じています。

私を『萬葉集』に導いたのは、中西進氏の『天智伝』(中公叢書、中央公論社、1974)と『神々と人間』(講談社現代新書、講談社、1975)でした。これらの本に触れたのは高校生のときでした。

小学校6年のときに、友人の発案で古墳を見て回るようになってから、私は考古学と古代史に興味を持つようになりました。1972年の高松塚古墳の壁画の発見で、「古代史ブーム」が起こっていたことが、友人の発案の背景にあったかもしれません。しかし、奈良から遠い北関東の中学生たちは、高松塚の壁画よりも、思いがけなく身近なところに存在している古墳のかたちや石室を面白いと思っていました。考古学者の森浩一氏の『古墳―石と土の造形』(保育社から―ブックス、保育社、1971)などの本や、大和久震平氏・塙静夫氏『栃木県の考古学』(郷土考古学叢書、吉川弘文館、1972)が私たちの導き手でした。中学に進むと、この仲間でガリ版刷りの雑誌も作りました(創刊号は地方新聞にも紹介してもらいました)。

本を読んでゆくうちに、「文献史学」という学問があることを知りました。歴史学者の門脇禎二氏や直木孝次郎氏の「文献史学」が描き出す「歴史を生きる人間像」に強く魅了されるようになりました。さらに、高校生になってからは、日本古代史だけでなく、中国史や中央アジア史にも関心を持つようになっていました。この分野にも、宮崎市定氏や岩村忍氏のような若者の心を惹きつけて止まない書き手がいました。

そうした中で私に強烈な印象を与えたのが、中西氏の『天智伝』です。時を忘れてこの本に読みふけりました。『天智伝』は、雑誌『歴史と人物』1974年6月号から9月号まで4回連載され、加筆後、中高叢書の1冊として刊行されたものです。評伝と言いつつ、内容は「歴史小説」です。静謐な文体で描き出された、7世紀の激動する国際関係の中を生きる天智天皇の孤独が、いつまでも心に残りました(新羅の武烈王・金春秋キムチュンチュのことも初めて知りました)。

2010年に『中西進著作集』第25巻(四季社)に『天智伝』が収録されたとき、私は月報にその解題を書きました。その中で以下のように記したことは、高校生の頃に感じたことに変わりありません。


■『天智伝』は小説的スタイルで叙述される。論考のスタイルでは掬(すく)い取れぬ王者の孤独に筆を届かせた。激動する歴史の渦の中を、自らの意志とかかわりなく、そしてそれを知りながらも一途に生きねばならなかった天智天皇像を示したのである。また、この小説的スタイルは七世紀の政治世界を生々しく映像化したことでも注目される。(「二つの帝王像」連載・Ⅰ)

私が『天智伝』に魅了されたのは、古代の政治世界を映像化した「歴史小説」としての面白さだけではなく、この本の基礎にある〈人間とは何か〉という問いかけが、若い私の心に突き刺さったからであったと思います。この時期に中西氏が〈人間とは何か〉を問う文学研究の模索をしていたことを、『神々と人間』、『万葉集原論』(桜楓社、1976)、『万葉集入門 その歴史と文学』(角川文庫、角川書店、1981)などを次々と読んでいく中で知りました。

私も、文学(それも古代の)を通じて〈人間とは何か〉を考えたいーーこの思いから『萬葉集』へと向かいました。戦前の萬葉学者たちのような、最初から『萬葉集』の歌そのものに魅力を覚え、しかも短歌の実作者、という行き方とは違っていました。大学生になってから、『萬葉集』の歌の深さを知るようになりましたが、高校生のときに読んでいた文学は、日本近代の小説、『三国志演義』・『史記列伝』、フランスの小説などでした。とはいえいわゆる「文学青年」ではありませんでした。

『萬葉集』は、〈人間とは何か〉という問いかけに、さまざまな方面から応じてくれる文学のように思います。自然と人間の関係、〈戦争〉と〈平和〉、貧困、人間の尊厳と〈自由〉、宗教的寛容、近代化と伝統文化、ジェンダー、テクノロジーと人間、生と死などの人間の普遍的な問題を考える手がかりが、『萬葉集』には存在しています。

この困難な時代の中で、いかに生きればよいか悩む若い人々の心を強く揺さぶるような、『萬葉集』についての本ーー私にとっての『天智伝』や『神々と人間』のような本ーーが、もっと書店の書棚に並ぶようであってほしいと強く思っています。

2024年11月17日日曜日

近代における日韓の文学交流研究の重要性

 

2024年11月16日、青山学院創立150周年記念日に、創立150周年事業の一つとして『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』(四六判、256頁、非売品)を刊行しました。

表紙の留学生が誰かわかる人は、近代韓国文学通です。今日、韓国で最も人気のある詩人のひとり・白石です。日本で最もよく知られている韓国近代詩人は尹東柱(ユンドンジュ)ですが、その尹東柱が強く心を寄せた詩人が白石でした。

白石は、青山学院高等学部英語師範科に1930年4月に入学し、1934年3月に卒業しました。1936年に初めての詩集『鹿』を自費出版しました。白石が青山学院に寄贈した詩集『鹿』は、貴重書として青山学院大学図書館本館に所蔵されています。

白石は、モダニズムの影響を受けながら、故郷の人々の暮らしや自然の情景を、感覚を交錯させて五感全てに訴えかけるようにして表現しました。また、この世を生きる小さな存在に無限の共感を寄せました。

『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』の五十嵐真希氏執筆「白石」に収録されている「白き壁があって」(五十嵐氏訳。後半部。『文章』1941年4月号所収)から。

この白きかべには

わたしのさみしい顔を見つめて

このような文字がよぎっていく

――わたしはこの世で貧しく寄る辺なく気高くさみしく生きるようにうまれてきた

  そして この世を生きてゆくのだが

  わたしの胸はあまりにも多くの熱いものに 心細いものに 愛に 悲しみに満ちあふれ

   ている

  そして今度は わたしを慰めるがごとく わたしを力尽(ず)くで追い詰めるがごとく

  目で合図をし 拳(こぶし)をふるって かかる文字がよぎっていく

――天がこの世を生み出したとき 最も尊び慈しまれるものたちはみな

  貧しく寄る辺なく気高くさみしく そしていつでもあふれんばかりの愛と悲しみのなか

   で生きるようにおつくりになったのだ

  三日月と金鳳花(きんぽうげ)とダルマエナガとロバがそうであるように

  そしてまた「フランシス・ジャム」と陶淵明(とうえんめい)と「ライナー・マリア・リ

   ルケ」がそうであるように

白石をはじめ、戦前に青山学院で学び、文学者として活躍した韓国朝鮮の留学生は、10名を超えます。『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者』たちでは、概説ののち、そのうち11名を紹介しました。

【目次】

青山学院と日韓関係(山本与志春:青山学院院長)

青山学院と朝鮮を結びキリスト教ネットワーク(松谷基和:東北学院大学教授)

青山が訓と韓国朝鮮からの留学生(佐藤由美:専修大学教授)

韓国近代文学について―青山学院との関わりを視野に入れて―(熊木勉:天理大学教授)

日本近代文学と青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち(小松靖彦:青山学院大学教授)

コラム 田栄沢の文章二つ(波田野節子:新潟県立大学名誉教授)

尹昌錫(ユンチャンソク윤창석)〔独立運動家・詩作〕(北田道也:通信制高等学校教諭)

李一(イイル이일)〔詩人〕(韓京子:青山学院大学教授)

田栄沢(チョンヨンテク전영택)〔牧師、小説家、詩人、童話翻訳者〕(芹川哲世:二松学舎大学名誉教授)

方仁根(パンイングン방인근)〔大衆作家、詩人〕(金鍾洙:慶熙大学教授)

呉天錫(オチョンソク오천석)〔教育者、詩人、童話翻訳者〕(韓京子)

朱耀燮(チュヨソプ주요섭)〔小説家〕(芹川哲世)

徐恒錫(ソハンソク서항석)〔劇作家〕(韓京子)

金永郎(キムヨンナン영랑)〔詩人〕(梁誠允:高麗大学研究教授)

朴龍喆(パクヨンチョル박용철)〔詩人、評論家〕(李承淳:詩人、執筆家、ピアニスト)

金東鳴(キムドンミョン김동명)〔詩人〕(熊木勉)

白石(ペクソク백석)〔詩人〕(五十嵐真希:翻訳家)

金素雲(キムソウン)『朝鮮詩集』と「こゝろ」について(沢知恵:歌手、ハンセン病療養所の音楽文化研究)

これほど多くの文学者たちが青山学院で学んでいたことを知ったとき、私は驚きを禁じえませんでした。また、彼らが独立への思いを胸に、文学のことばに命を託したことにことに、深い感銘を受けました。熊木勉氏が以下のようにまとめてくださったように、彼らは韓国近代文学史に大きな足跡を残しました。


[…]韓国近代文学史の流れを大きく俯瞰しながら、その中で青山学院につながる文人たちが、どのような活動をし、どのような文学の傾向を見せたかを見てきた。内容的に、彼らにほぼ共通してみられるのは、困窮する人々への共鳴、人道主義的姿勢であったと思われる。

 韓国近代文学史で重要な意味を持ついくつかの文芸誌に、青山学院の人脈が関係しうる点にも言及した。この青山学院の人脈ネット―ワークは、韓国近代文学史の形成と発展に一定の役割を果たしたと言えることであろう。(『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』43頁)

それにしても、なぜ青山学院に韓国朝鮮から多くの若者が留学してきたのか。青山学院がキリスト教の教派を問わずに留学生を受け入れており、「当時の朝鮮の排他的な教会組織や伝統に対する批判的精神を持つ学生も集まるように」なり、青山の相対的に自由な教育が留学生たちを大いに満足させたと、松谷基和氏は説明しています。松谷氏は、神学部の留学生・金在俊(キムジェジュン)のことばを紹介しています。

「青山学院といえば”自由”が連想される。学生であれ先生であれ、個人の自由、学園の自由、学問の自由、思想の自由があり、すべてが自由の雰囲気であった。水の中の魚のように自由の中で生きていたように思う。」(『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』16頁)

日本による朝鮮統治が行われる中、青山学院は理想を貫き、その自由・平等・博愛が韓国近代文学の種子を育んだと言えます。青山学院は、1923年の関東大震災のとき、井戸に毒を入れたという流言によって命の危険にさらされた朝鮮の人々に対して、すぐに支援活動を展開しています。

青山学院を「苗床」とする日韓の文学交流は、今日、青山学院関係者にもあまり知られておらす、関心も高くありません。立教大学の尹東柱の研究と顕彰、同志社大学の鄭芝溶と尹東柱の研究と顕彰のようなことは、青山学院ではあまり行われてきませんでした(『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』の執筆者のひとり・北田道也氏の研究があるだけです)。

青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者の中には、李一(イイル)のように韓国でもまだ研究が十分に進んでいない人もいます。また、金東鳴は、金素雲(キムソウン)の日本語訳に、金素雲の孫にあたる沢知恵氏が美しい曲を付けた作品「こころ」で有名ですが、その詩人としての生涯は、日本ではあまり知られていません。沢氏は、「こころ」について次のように記しています。

 金東鳴と金素雲と私。二つの国のことばをからだにもち、母国喪失の思いを抱えた三人がときを超えて生み出したのが《こころ》です。日本の苛烈な植民地支配がなければなかったうた。こんなうた、なかったほうがよかった? 抑圧ゆえに生まれた黒人霊歌やハンセン病療養所のうたと同じうめきのうた、叫びのうたであることに、私はようやく気づきました。(『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』242頁)

熊木勉氏が金東鳴の生涯と文学をわかりやすく説明しています。金東鳴は、青山学院留学時代の先輩・友人との交流によって現実逃避から脱し民族的自意識を確立して、宗教性と民族主義を調和させた、苦難に耐え抜き、「ニム」(思慕する者)を「待つ」という独自の詩を作り上げました。

この本で取り上げることができなかった李根庠(イグンサン 詩人)、秦長燮(ジンジャンソプ 児童文学者)、蔡順秉(チェスンビョン 翻訳・研究)、金溶益(キムヨンイク 小説家)、李貞善(イジョンソン シナリオ作家)や、青山学院出身との説がある(未確認)呉相淳(オサンスン)についても今後研究を進めることが必要です。

青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たちの足跡は、日本と韓国朝鮮の近代史、そして文学交流史に新たな光を当てるものです。祖父である詩人・金永郎について解説を書いてくださった梁誠允氏のことばを、この記事の最後に引きたいと思います。

[…]どのような評価軸によろうとも、海を隔て、詩を通じた新たな経験をこの先どのように紡(つむ)ぎ出し、またどう語り継ぐかは、海の向こうとこちらの私たちの手にかかっている。(『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』183頁)


2024年8月31日土曜日

日本近代における『萬葉集』受容資料の引用について

 

日本近代における『萬葉集』受容に関する資料を引用するとき、振り仮名もいっしょに引用することが重要です。

日本近代の『萬葉集』のテクストでは、読み下し文が一般的です。その読み下し方は、たとえば、『新訓萬葉集』(岩波文庫)、『作者類別年代順 萬葉集』(新潮文庫)では違っています。

ある文学者が『萬葉集』を引用しているとき、振り仮名にから、どのテクストを使っているかのか、そのテクストのその読み下しにしたがってどのような解釈をしているのかがわかります。ですから、日本近代の文学者の、『萬葉集』受容資料を引用する場合、『萬葉集』の歌の振り仮名も含めなければなりません。また、解説文の中に、振り仮名があれば、それも安易に削除してはなりません。

また、本、雑誌、新聞を、日本近代における『萬葉集』受容について資料として用いる場合も、振り仮名も一緒に引用することが望ましいと思います。本によっては、総ルビのこともあります。煩雑なため、引用の際に省略されることも多いようですが、その総ルビから、読者として誰をターゲットにしている文章なのか、という貴重な情報が得られます。さらに、『萬葉集』の人名・地名を当時どのように読み下し方をしていたかもわかります。

戦前の資料では、現在とは違った読み下し方をしていたものとして、以下の例があります。

■額田王 ぬかだのおほきみ →(現在では)ぬかたのおほきみ
■中大兄 なかちおひね   →(現在では)なかのおほえ

なお、固有名詞に振り仮名が振っていない、近代の文学者の文書を引用する際、一般向けの本では、新たに振り仮名を加えることになります。その時に、現在の読み下し方で振り仮名を付けてしまうのは問題です。

戦前の新聞は、振り仮名について不思議な振り方をしています。「作品」の「作」にだけ「さく」と振り仮名があったりします。補って読めるところは振り仮名を振っていないのでしょうか。そのため、新聞の振り仮名は省略されてしまうことが多いようです。しかし、振り仮名は全て引用しておいたほうが、のちに研究する者の助けとなると思います(特に閲覧が簡単ではないもの)。

振り仮名は「付属物」と見られがちです。本文を言語的な〈本文(テクスト)〉(簡単に言えば「内容」)に限定して考えると、確かに「付属物」のように見えてしまいます。しかし、日本近代の印刷文化の中では、振り仮名は本文の一部にほかならないと、私は思っています。

論文や本に、近代における『萬葉集』受容資料を引用するときは、振り仮名も省略せずに引くことが基本的ルールになることを願っています。