小説の中のチェコの大学院生たち
チェコのプラハ出身の作家アンナ・ツィマの『シブヤで目覚めて』(阿部賢一、須藤輝彦訳、河出書房新社、2021)に、興味深い場面があります。主人公のクリスティーナは、プラハの大学で日本学を専攻する修士課程の大学院生。図書室で読んだ「川下(かわしも)清丸」の短編推理小説「分裂」に惹きつけられている。日本の文学者・松下太郎の講演会でのコメントで強烈な印象を残した、博士課程の大学院生ヴィクトール・クリーマを、講演後にカフェに誘う。そのとき、次のような会話を交わします。
クリスティーナはやがてクリーマに、情報の少ない「川下清丸」について調査の助力を求めます。川下の小説「作品」から、川下の伝記的事実を探ろうするクリスティーナに対して、クリーマはロラン・バルトの〈作者の死〉というエッセイを聞いたことはないのか、と尋ねます。クリスティーナはそれを知りませんでした。その後、クリスティーナはクリーマと対等に議論できようになるため、文学理論を学ぼうと思い、図書室でトドロフの『散文の詩学』―多くの学生が手にしてボロボロになっている―を読み始めますが、「数秒と経たないうちに、頭が爆発しそうに」(p. 105)になります。しかし、クリスティーナはカバン10キロを超える、文学理論の本を家に持ち帰り、それらと格闘し始めます。
日本で日本文学を研究する日本人の大学院生が、下級生に「方法論は? 語りの分析は?」と尋ねることは、あまりないように思います。「あの先行文献は読んでいますか?」と聞くことが一般的でしょう。クリーマが並外れて文学理論に通じた人物として設定されているため、このような問いを発したと見ることもできるかもしれません。
アメリカ・ヨーロッパの欧州文学研究では
しかし、それだけではないようです。アメリカの英文学・比較文学研究者のジョナサン・カラーの『1冊でわかる 文学理論』(荒木映子、富山太佳夫訳、岩波書店、2003)が、理論がどんどん増えてゆくものであることを指摘し、次のように述べています。
[…]理論は恐ろしげなものとなり、たえず自分を目立たせるための手段にもなる。「えっ? ラカンを読んでいないの! 語る主体の鏡像的な構成を云々しないで、抒情詩についての語るの?」とか、「フーコーの説明したセクシュアリティの援用とか、女の身体のヒステリー化とか、ガヤトリ・スピヴァックの宗主国的主体の構築におけるコロニアリズムの役割についてものとかを使わないで、ヴィクトリア朝の小説について書けるの?」とか。時には理論がなじみのない分野の難解な本を読むことを強制し、ひとつの課題が終わったかと思うと、ひと休みどころか、さらに難解な仕事を押しつけてくる悪魔の宣告となることもある(「スピヴァック? へえ、でもベニタ・パリーのスピヴァック批判と、スピヴァックからの返答を読んだ?」)。(pp. 23–24)
クリーマのような問いかけをすることは、アメリカ・ヨーロッパで、欧州文学を研究する人々の間では普通のように見えます。理論を学んで、ケーススタディとして文学作品に応用するという研究方法が、アメリカ・ヨーロッパでは、欧州文学研究だけではなく、日本文学研究でも基本となっていることがうかがえます。
日本文学研究者の場合
こうした理論を基本とする研究方法に対して、日本の日本文学研究者の姿勢は大きく二つに分かれるようです。一つは、書誌的研究・本文批判・語釈、および鑑賞・批評を中心とする「近代的国文学」の研究方法を守り、理論にはあまり関わらないという姿勢、もう一つは、ヨーロッパ・アメリカの文学理論の動向を追かけ、日本文学に応用するという姿勢です。
どちらにも理由があると思います。書誌的研究・本文批判・語釈、および鑑賞・批評を丹念に積み上げてきた「近代的国文学」からすると、文学理論を応用する研究はいかにも乱暴に見えます。また、はやりすたりのある文学理論に依拠することは、不安定に思えます。一方、文学理論を用いる側には、日本文学研究を「世界標準」(括弧付き)で進めたいという強い思いがあります。実際、文学理論に通じていないと、アメリカ・ヨーロッパの日本文学研究者に相手されないことがあります。日本文学に関する論文も、英語論文の場合、依拠した理論を明示しないと、英語ジャーナルの査読で厳しい指摘を受けます。


