2016年4月30日土曜日

『アシャの日記』―戦争下のかけがえない記録


2016年6月4日(土)・5日(日)に、青山学院大学にて、全国大学国語国文学会60周年記念大会が開催される。総合テーマは「日本とインド―文明における普遍と固有―」。4日には、スバス・ボース氏(ハーバード大学)の講演、「日本とインドを結ぶ―交流の過去・現在・未来―」をテーマとする、藏中しのぶ氏(大東文化大学)・近藤光博氏(日本女子大学)・田辺明生氏(東京大学)のパネルディスカッションがある。

この大会の準備を進める中、書店で笠井亮平氏の『インド独立の志士「朝子」』(白水社、2016)が目に留まった。日本で生まれ育ったインドの女性、アシャ・バーラティ・チョードリー(1928~)の評伝である。

アシャの父は、アーナンド・モーハン・サハーイ。日本で独立運動を進めていたサハーイは、やがて独立運動の中心的存在であったスバス・チャンドラ・ボースを支えてゆくことになった。1945年、アシャは、ボースが最高司令官である「インド国民軍」の婦人部隊に入隊し、独立運動に加わった。しかし、活躍する時を得ぬまま、大日本帝国の敗戦と「インド国民軍」の解散を迎えるのである。

現在もインドで暮らすアシャを始め、関係者への丁寧なインタビューに基づく笠井氏の労作は、スバス・チャンドラ・ボースらが進めたインド独立運動の進展と挫折を、生々しく、しかも骨太に描いている。そして、この独立運動に深く関わった日本の歴史を重く受け止めさせずにはおかない。

笠井氏の評伝の根本史料となっているのは、アシャ自身が執筆した『アシャの日記』である。評伝には、『アシャの日記』から、アシャが短歌を作ることや、台湾での特攻隊員たちとの出会いなど、非常に興味深い記事が引用されている。その全体をどうしても知りたいと思った。

『アシャの日記』の日本語版は、アシャが日本女子高等学院(昭和女子大学の前身)附属の昭和高等女学校で学んだ縁で、2010年に学校法人昭和女子大学から刊行された。しかし、この本は非売品である。笠井氏はデリー在住の人から入手したというが、私は昭和女子大学で非常勤講師を務めている縁を頼り、日本文学科の助手に調べていただき、昭和女子大学光葉同窓会のご厚意で、その1冊にたどり着くことができた。 

口絵8頁、本文200頁からなり、1943年6月14日(満15歳)1946年7月(満18歳)までの日記を収めた『アシャの日記』は、戦争の時代に、日本とインドに生きるという稀有の境遇を生き抜いた若い女性の、かけがえない記録であった(なお、『アシャの日記』は、「あとがき」の後に添えられた発行者のことばによれば、翻訳ではなく、アシャ自身が日本語で書いたものを、アシャが後に原稿用紙にまとめたものである)。

『アシャの日記』には、母国のイギリスからのインド独立を願い、それに貢献したいという純粋すぎるほど純粋な思い、独立運動を主導する「ネタージ(尊敬する指導者)」スバス・チャンドラ・ボースへの尊敬の気持ちを中心にしながら、家族を思い揺れる心や、戦争を憎む心が、抑制された筆致で表現されている。そして、一つ一つの場面がくっきりとした輪郭で描かれ、読む者に強い臨場感を感じさせる。日本の詩歌や小説を好んでいたというアシャの文章力は確かなものである。

インド国民軍の婦人部隊に加わるために、タイのバンコクに向かい途中で立ち寄った台北の旅館「千代の家」で特別攻撃隊「誠隊」(陸軍第八飛行師団)の隊員たちに出会い、その出撃を見送る場面は、感傷的ではない。むしろ、深い共感をもって、彼等の人間としての姿と、自分自身の悲しみをじっと見つめている。

*登場するのは、以下の人々。
桑原大尉[91頁〈4月27日〉]:桑原孝夫少尉(1945年4月28日に誠第三十四飛行隊として「疾風」で出撃・戦死)
草場道夫少尉[同上。アシャに漢文を書いた手ぬぐいを送る]:(『アシャの日記』に書かれているよりも後の1945年6月6日に誠第三十三飛行隊として「疾風」で出撃・戦死)
長井少尉[96頁〈4月29日〉。「アシャさん、僕等のために祈ってくださいね」と言った]:(不明)
猪俣少尉[97頁〈4月30日〉。特攻隊の護衛]:(不明。あるいは猪俣寛少尉〈飛行第二十戦隊〉か)
大野少尉[同上。特攻隊の護衛]:(不明。あるいは大野好治少尉〈飛行第二十戦隊〉か)
遠藤少尉[102頁〈5月3日〉]:(不明)
木村准尉[107頁〈5月5日〉]:(不明。なお、5月5日は特攻隊の出撃は記録されていない

アシャは、戦前の日本の教育によって培われた「愛国心」を、インド独立を願う心の原動力としている。アシャの短歌には、生まれ育った神戸の自然を愛おしみ、残してゆく弟をいたわるなど、切実なものがある。その一方で、戦争下の類型的な愛国短歌のような作品も作っている。アシャは「勝ってくるぞといさましく」を口ずさむ少女でもあった。

戦前の愛国教育が、日本の青少年だけでなく、インド独立を願う若い人々にも与えた影響について、肯定的あるいは否定的に評価することは脇に置いて、今、歴史の中できちんと捉え直すことが必要であると思われる。


戦争下の日本とインドの関係を考えさせる、貴重なこの本が、多くの人に読まれることを、心から願ってやまない。なお、「アシャ」という名前は、「希望」という意味である。

2015年5月13日水曜日

太平洋戦争開戦直前の頃















『万葉集』は、日中戦争・太平洋戦争下で、実にさまざま人々に読まれていた。

昭和14年(19398月、山本五十六は聯合艦隊司令長官に赴任する際に、『万葉集』を携えて行った(佐佐木信綱『万葉清話』、武井大助『山本元帥遺詠解説』による)。

昭和16年(19411130日付の「朝日新聞」朝刊には、「嵐の洋上で ゆかしい和歌 昭和の防人 山本海軍大将」の見出しで、山本が詠んだ短歌が紹介されている。

大君の御楯(みたて)とたゞに思ふ身は名をも命も惜しまざらなむ

この歌は、『万葉集』の次の防人歌(さきもりのうた)を踏まえたものである。

今日よりは 顧(かへり)みなくて 大君の 醜(しこ)の御楯と 出で立つ吾は
               (巻204373、今奉部与曽布(いままつりべのよそふ)

太平洋戦争開戦以後は、この防人歌を踏まえた将兵の歌が多く見られるようになるが、日中戦争の時期には、将兵が「醜の御楯」を歌に詠むことは少なかった。太平洋戦争開戦以前に、実戦部隊の最高司令官が、自分自身を「醜の御楯」と詠むことは、極めて異例のことである。

この歌は、武井大助によって、昭和16128日に、昭和天皇の開戦の大詔を拝して、感激のあまりに詠んだ歌とされたが、「朝日新聞」によれば、実際には、開戦直前に静かな決意を詠んだ歌であった。

山本は圧倒的な工業力を持つアメリカとの開戦に強く反対していた。しかし、日本政府は、昭和161126日にアメリカ政府から届いた「ハル・ノート」を受けて、28日に日米交渉の事実上の断絶を決定した。山本は開戦が決定的となった時点で、『万葉集』の防人歌の、天皇への初々しい忠誠心を拠りどころに、困難な戦争に臨もうとしたのである。

山本は昭和天皇から厚い信頼を得ていた(「新潟日報」平成26年(2014)年919日付)。その信頼に報いようとする思いを、防人歌に重ねた。

昭和18418日に戦死するまで、『万葉集』は山本の傍らにあり続けた。

                          ※

同じく開戦直前の、昭和161011日から29日に、小説家の堀辰雄は、『万葉集』を携えて、奈良を旅し、万葉びととその村を背景とする小説を制作しようとしていた。さらに、12月初にも奈良を訪れ、三輪山の麓、瓶原(みかのはら)、飛鳥を散策している。

堀は昭和16年秋の緊迫した情勢知らなかったわけではない。東京に残った妻の多恵子は、この時期にことを、後に次のように記している。

…東京では毎日防空演習に余念なく、町には号外の鈴の音がはげしく、毎日危機説におびやかされていました。
         (「辰雄の思い出」『堀辰雄 妻への手紙』新潮文庫、昭和40年)

多恵子は防空演習のことを、奈良の堀に手紙で伝えている。そして、堀は、昭和149月の、ドイツのポーランド侵攻について、鋭く反応した文章を記したように(「木の十字架」)、距離を置きながら、常に戦争の行方を敏感に意識していた。

開戦直前の時期に、堀は意識的に戦争から最も遠い場所に身を置いて、万葉の古代に沈潜することで、人間の「生と死」を見つめようとしていたのである。

万葉びととその村を背景とする小説は、ついにまとまることはなかった。しかし、この時の思索は、小品「十月」「古墳」を生み、さらにこの時期から本格化する、堀の『万葉集』の読解は、やがて昭和19年冬から20年初頃に、防人を主人公とする小説を構想させた。

当時の防人像とは全く異なり、“大君への尽忠”を一切言わない、堀の防人小説は、戦争末期の絶望的戦況の中で、次々と命を失ってゆく若き人々への、堀なりの鎮魂を意図したものである。

自らの意思に反して、前線で指揮をとることになった山本五十六、戦争から最も遠い場所で、戦争下の「生と死」を考え続けた堀辰雄、この二人が心の拠りどころとしたものが、同じ『万葉集』であったことに、深い感慨を覚えずにはいられない。

*山本五十六の『万葉集』受容については、山本五十六景仰会機関誌『清風』第31号(平成27418日)に、「山本五十六と『萬葉集』」という短い文章を寄せました。詳しくは、こちらを参照していただければ幸いです。執筆の機会を賜った、NPO法人山本五十六景仰会に感謝申し上げます。
*堀辰雄の防人小説については、『文学』(岩波書店)56月号に論文を発表します。

2015年5月7日木曜日

はじめに


このブログ「万葉集と日本人」では、日本最古の歌集『万葉集』の魅力と、その『万葉集』が1200年にわたって読み継がれてきた歴史を紹介します。

「万葉集と日本人」というタイトルは、私の著書『万葉集と日本人』(角川選書、2014年)からとったものです。

『万葉集』の読まれ方は、時代によって大きく変化してきました。『万葉集』はその時代の人々の心を映し出す鏡となっています。『万葉集』の1200年を通じて、日本人の心の歴史を見つめ直し、その上で私たちの時代の『万葉集』の読み方を考える――これが、『万葉集と日本人』という本のスタンスです。

そして、『万葉集と日本人』では、これからの『万葉集』の読み方を、次のように考えました(第八章「『万葉集』の未来」の趣旨)。

《今日、多くの外国語に訳され、さまざまな国の人々に感動を与えている『万葉集』は、決して“日本人にしかわからないもの”ではありません。人間とは何か、人間が生きるとは何かを問いかけた、普遍的な文学として、世界の人々に開かれたものです。

《私たちも普遍的な文学に出合う時、それが外国文学であるか、日本文学であるかに関係なく、深い感動を覚えています。

《しかし、「普遍的な文学」というものは、抽象的に存在しているわけではありません。その普遍性は「エスニシティ」(民族性)や「ネイション」(国民)を通じて表現されます。

《「エスニシティ」や「ネイション」を大切にしながら、それを絶対化せずに、常に知性的に捉える目を持ち、普遍的な文学として『万葉集』を読んでゆくこと、それによって世界の文学や文化に貢献してゆくことが、これからの『万葉集』の読み方であると思います。

ブログ「万葉集と日本人」もこの立場に立って、『万葉集と日本人』では触れることのできなかったトピックを紹介し、またこの本以後の研究成果を伝えながら、私たちの時代の『万葉集』の読み方を深めてゆきたいと思っています。

なお、これまで私が運営していたブログ「万葉集と古代の巻物」はbloggerブログに移転しました。過去の記事は、この新しいURLに全て保存されています。
万葉集と古代の巻物