2026年5月1日金曜日

文学理論のこと

 

小説の中のチェコの大学院生たち

チェコのプラハ出身の作家アンナ・ツィマの『シブヤで目覚めて』(阿部賢一、須藤輝彦訳、河出書房新社、2021)に、興味深い場面があります。主人公のクリスティーナは、プラハの大学で日本学を専攻する修士課程の大学院生。図書室で読んだ「川下(かわしも)清丸」の短編推理小説「分裂」に惹きつけられている。日本の文学者・松下太郎の講演会でのコメントで強烈な印象を残した、博士課程の大学院生ヴィクトール・クリーマを、講演後にカフェに誘う。そのとき、次のような会話を交わします。

「専攻は?」とクリーマ。私がカフェに誘ったことは聞き流していた。
「日本学。修士の二年」と私。「さっき、松下先生の講演に一緒に出てた。落ちたペンを渡したでしょ。」
クリーマは煙草を口から離す。
「修論のテーマは?」
「日本のミステリー小説」と私。「推理小説、それにミステリー要素のある作品」
「で、方法論は? 語りの分析は?」
もう、警察の取り調べを受けているよう。
「方法論? まだわからない。始めたばかりで、提出は夏だから。まだ九か月ある」
「そうか、じゃあ、ごめん」クリーマは吸い殻を灰皿に入れて、その場を去った。(p. 65)

クリスティーナはやがてクリーマに、情報の少ない「川下清丸」について調査の助力を求めます。川下の小説「作品」から、川下の伝記的事実を探ろうするクリスティーナに対して、クリーマはロラン・バルトの〈作者の死〉というエッセイを聞いたことはないのか、と尋ねます。クリスティーナはそれを知りませんでした。その後、クリスティーナはクリーマと対等に議論できようになるため、文学理論を学ぼうと思い、図書室でトドロフの『散文の詩学』―多くの学生が手にしてボロボロになっている―を読み始めますが、「数秒と経たないうちに、頭が爆発しそうに」(p. 105)になります。しかし、クリスティーナはカバン10キロを超える、文学理論の本を家に持ち帰り、それらと格闘し始めます。

日本で日本文学を研究する日本人の大学院生が、下級生に「方法論は? 語りの分析は?」と尋ねることは、あまりないように思います。「あの先行文献は読んでいますか?」と聞くことが一般的でしょう。クリーマが並外れて文学理論に通じた人物として設定されているため、このような問いを発したと見ることもできるかもしれません。

アメリカ・ヨーロッパの欧州文学研究では

しかし、それだけではないようです。アメリカの英文学・比較文学研究者のジョナサン・カラーの『1冊でわかる 文学理論』(荒木映子、富山太佳夫訳、岩波書店、2003)が、理論がどんどん増えてゆくものであることを指摘し、次のように述べています。

[…]理論は恐ろしげなものとなり、たえず自分を目立たせるための手段にもなる。「えっ? ラカンを読んでいないの! 語る主体の鏡像的な構成を云々しないで、抒情詩についての語るの?」とか、「フーコーの説明したセクシュアリティの援用とか、女の身体のヒステリー化とか、ガヤトリ・スピヴァックの宗主国的主体の構築におけるコロニアリズムの役割についてものとかを使わないで、ヴィクトリア朝の小説について書けるの?」とか。時には理論がなじみのない分野の難解な本を読むことを強制し、ひとつの課題が終わったかと思うと、ひと休みどころか、さらに難解な仕事を押しつけてくる悪魔の宣告となることもある(「スピヴァック? へえ、でもベニタ・パリーのスピヴァック批判と、スピヴァックからの返答を読んだ?」)。(pp. 23–24)

クリーマのような問いかけをすることは、アメリカ・ヨーロッパで、欧州文学を研究する人々の間では普通のように見えます。理論を学んで、ケーススタディとして文学作品に応用するという研究方法が、アメリカ・ヨーロッパでは、欧州文学研究だけではなく、日本文学研究でも基本となっていることがうかがえます。

日本文学研究者の場合

こうした理論を基本とする研究方法に対して、日本の日本文学研究者の姿勢は大きく二つに分かれるようです。一つは、書誌的研究・本文批判・語釈、および鑑賞・批評を中心とする「近代的国文学」の研究方法を守り、理論にはあまり関わらないという姿勢、もう一つは、ヨーロッパ・アメリカの文学理論の動向を追かけ、日本文学に応用するという姿勢です。

どちらにも理由があると思います。書誌的研究・本文批判・語釈、および鑑賞・批評を丹念に積み上げてきた「近代的国文学」からすると、文学理論を応用する研究はいかにも乱暴に見えます。また、はやりすたりのある文学理論に依拠することは、不安定に思えます。一方、文学理論を用いる側には、日本文学研究を「世界標準」(括弧付き)で進めたいという強い思いがあります。実際、文学理論に通じていないと、アメリカ・ヨーロッパの日本文学研究者に相手されないことがあります。日本文学に関する論文も、英語論文の場合、依拠した理論を明示しないと、英語ジャーナルの査読で厳しい指摘を受けます。

以前より、これら両極の姿勢と異なる道はないものかと思っていました。日本文学研究が世界的なものに広がっている今日、やはり文学理論を学ぶことも必要に思います。しかし、ひたすらヨーロッパ・アメリカの文学理論を追いかけることもどうか、とも思います。中国、韓国、インドなどの文学研究を少し読むことがありますが、それぞれがヨーロッパ・アメリカの文学理論を追いかけ、それを自国の文学に応用しています。横に目を向ける、ということは、まだあまり行われていないようです。

中国の文学研究者・銭鍾書

こうした思いを抱いている私にヒントを与えてくれたのが、張隆溪氏『比較から世界文学』(鈴木章能訳、水声社、2018)です。古書店の書棚からこの本を取り出して、ページをめくっていると、「銭鍾書と世界文学」という章があって驚きました。「銭鍾書」という中国の文学研究者の名前は、以前に中国から留学してきた大学院生に教えられて、知っていました。共感覚を「通感」というタームで捉え、近代の認知心理学とは少し異なる、詩における感覚表現の研究をしていることに興味を持ち、銭鍾書についてもっと知りたいと思っていました。

銭鍾書は、1910年生まれで1998年没。この本によれば、1985年に、ジャック・デリダ、ウンベルト・エーコ、ジェラール・ジュネット、ヴォルフガング・イーザー、ロベルト・ヴァイマンとともに米国現代語学文学協会(MLA)の名誉会員に選ばれています。張隆溪氏は、「しかし、そうした高い評価にもかかわらず、銭鍾書の名は、とくに同じ年に選出された前述の米国現代語学文学協会名誉会員の面々に比べて、西洋では一般的に知られていない」(p. 149)と言いますが、日本でも一般的に知られていません。

この本によれば、銭鍾書の文学研究の基本は、中国古典詩を、西洋の哲学・思想・文学・文学論・芸術論と、中国古典を驚くほど広く見渡し、その共通性に注目しながら注釈してゆくものであるとのこと。その成果まとめた、二つの批評書『談芸録』と『管維編』にまとめています。これらが西洋の読者にとって難解である理由を、張隆溪氏は次のように説明しています。

[…]用いられている古い中国語の難しさを別とすれば、まさにその形式にある。この形式は伝統的な注釈の形式で、理論形式にこれといった秩序がなく、とりとめもないと言うのがふさわしい断章の集合体となっている。銭が緩やかに繋がった地の断章形態を用いた理由は、個々の言葉や思想の具体的な知識の方が、統一的理論体系や抽象的理論よりも重要であるという強い信念があったためである。銭によれば、どのような思想大系もいつかは瓦解するものであり、そうなれば、精巧で秩序立った立派な構造は瓦解と化すが、巨大な建物が崩れた後に石材や木材がまだ使える状態で残るように、ばらばらになった個々の知の価値や妥当性は失われない。(p. 163)

もちろん銭鍾書は、ヨーロッパ・アメリカの文学理論にも通じていました。その上で、統一的理論体系ではなく、注釈という断章形式を意識的に選んだのです。まだ、『談芸録』と『管維編』を読んでいないので、確実なことは言えませんが、私には銭鍾書が自分自身を漢代以来の「中国文献学」の伝統の中に位置づけていたように思われます。

銭鍾書から学んだこと

このような銭鍾書の文学研究から、二つのことが学べます。銭鍾書の文学研究は、非西洋世界が西洋の知と切り結んだ貴重な足跡です。日本を含む、他の非西洋世界において、そこから汲み取ることができるものが多いと思います。日本の文学理論的研究で銭鍾書が引かれることはほとんどありませんが、一方、張隆溪氏『比較から世界文学』でも、日本の文学理論家への言及はありません。この「縦割り構造」を揺り動かすためには、情報の収集・発信・交換が重要です。

もう一つは、銭鍾書が、断章形式をとったことです。今日、「論文」や「研究書」という形で文学理論や、それを応用した研究を発表することが常識となっています。しかし、それはヨーロッパ・アメリカで「構築された制度」に外なりません。前近代の日本でも、古典研究は、注釈という形で発表されていました。中世の萬葉学者の仙覚も、近世の萬葉学者の契沖も、自分の思想を、注釈を通して表現しています。もちろん、論文や研究書を棄てて、注釈に回帰せよ、と主張するつもりはありません。それに、「近代的国文学」では、注釈は思想を表現するものではなくなっています。しかし、論文や研究書で示される文学理論というもの自体が、歴史的産物であることを意識していてもよいのかもしれません。

2025年9月15日月曜日

環境と日本文学研究

 

2025年9月3日(水)~5日(金)に開催された、ノルウェーのオスロ大学主催のEco-Emotions on Waterに参加しました。

オスロ大学人文学部の独自の日本研究と環境学とを知り、ぜひ交流を深めたいと思い、勤務先の青山学院大学とオスロ大学の間で、2023年に交換留学協定を結びました。そして、オスロ大学の研究者や学生の皆さんと直接交流する機会を持ちたいと思っていたところ、スカンジナビア・ニッポン ササカワ財団からの研究補助を得て、渡航が叶いました。

オスロ大学の窓口となったくださったアイケ・ピーター・ロッツ氏より、私の渡航予定の時期に、Eco-Emotionsの年次大会が開かれることを知らされました。参加するならば、聴くだけでなく発表し、『萬葉集』の環境学的視点からの研究成果を紹介したいと思いました。

「水」というテーマは、7月12日(土)に青山学院大学で開催したAGU環境学シンポジウム「バイオリージョナリズム[生命地域主義]を手がかりに 水、環境と開発を考える―環境をめぐる人文科学・社会科学・自然科学の対話―」の柱の一つでした。私は、こちらでは、「古代都市・平城京の水環境」というタイトルで発表しました。「国文学」の従来の「自然観」の研究ではなく、〈環境〉という視点からの研究が必要であることを説き、平城京の主要河川・佐保川から、現代都市の水環境を再考する手がかりを提案しました。

〈環境〉とは、「外界」そのものを意味するのではなく、生物の「主体」の存在や活動に、何らかの影響を与える事物の条件、つまり生物の生活に関わる範囲の「外界」を指します。そして、〈環境〉と生物の「主体」は相互に影響を与え合います。その中でも人間は、〈環境〉に自らを適応させたり、〈環境〉に影響を与えるばかりではなく、言語による〈環境〉に対する精緻な認識を基礎に、積極的に〈環境〉を改変する特異な生物です(〈環境〉の定義は、沼田眞「環境とは何か―環境観―」〈『図書』552、1992・12〉、鷲谷いづみ『自然再生 持続可能な生態系のために』〈中公新書、2004〉をもとに、小川(新姓、小松)「作為された自然―高木市之助の環境論〈文学と環境〉―」『古代文学の創造と継承』〈新典社、2011、pp. 601-602〉にまとめたものです)。

Eco-Emotions on Waterでは、Rediscovering the Power and Soundscape of Urban Rivers: A Literary Perspective from Ancient to Modern Japanと題して、佐保川だけではなく、『萬葉集』に詠まれた飛鳥(あすか)川、吉野川にも考察を拡げ、萬葉歌人たちに好んだ水景観を明らかにし、それをもとに、大岡昇平『少年』の宇田川、田口ランディ『モザイク』の渋谷川を解読した結果を発表することにしました。現代小説を加えたのは、北欧では『萬葉集』はあまり知られておらず、現代小説に論を及ぼすことによって、聴き手に、『萬葉集』の水環境を遠い過去のことではなく、現代の問題として考えてもらい、議論を引き出しやすくしたいと考えたからです。

ちなみに発表の際に、聴衆に『萬葉集』を知っている人を聞いたところ、ふたりでした。一人はオスロ大学の日本文学研究者のレベッカ・スーター氏。ヨーロッパの日本文学研究者の圧倒的多数は近現代文学を専門としています。

「水」をめぐる文化的感情についての国際学会からは、日本学やアジア研究の国際学会とは大きく異なる刺激を得られました。[以下はFacebookにも書いたことです]

Eco-Emotionsは、気候変動・環境危機をテーマとしています。初日のアイスランドの作家アンドリ・スナイル・マグナソン氏(8月に朱位昌併氏訳『氷河が融けゆく国・アイスランドの物語』〈青土社〉が刊行)の講演で、アイスランドの氷河融解が話題となったように、北欧の人々にとって気候変動・環境危機は極めて身近な、切迫した問題となっていることが感じられました。北欧の諸国とは違い、日本では原生自然はほとんど残っていません。日本の自然の多くは人間の手が入っています。そのせいもあって気候変動・環境危機に意識が向かいにくいところがあるのかと思いました。私の発表も気候変動・環境危機にまでは及んでいませんでした。大きな課題をもらったように思います。

また、「水」をめぐる世界の文学や、その研究状況についても知ることができました。この学会の中心メンバーであるステフカ・G・エリクセン氏は中世ノルウェー―アイスランド文学の写本研究者。それだけに中世ノルウェー―アイスランド文学の「水」についての発表が多くありました。また、デンマークの詩人インガー・クリステンセン、ロシアの絵本『ディンカ Dinka』のことも知りました。シリアやイランの「水」についての講演や発表も興味深く聞きました。よく引用される本としては、Bodies of Water: Postuman Feminist Phenomenology (Envioronmental Cultures)がありました。

日本文学についてのセッションWater in Japanese Literatureもありました。昭和28年台風13号についての杉浦明平のルポルタージュについての日本史研究者のエマ―・オドワイヤー氏の研究発表は興味深いものでした。台風被害を詳細に描くこのルポルタージュは、三島由紀夫に批判されたとのこと。日本研究の国際学会ではなかなか出会えない研究者と面識を得ることができたのもの収穫です。

共通の土台のもと、日本文学を通じて人間の普遍的問題に貢献する貴重な実地体験をさせてもらいました。[ここまでがFacebookに書いたこと]

その一方で、文学からの考察だけでは、気候変動・環境危機に対応できないことをも強く感じました。文学研究は、〈環境〉の改変が、人間の文化的感情にどのような影響を与えているかを示すことができます。また、気候変動・環境危機に対応するために、〈環境〉に対する考え方を大きく変える必要があることを力強く訴えることができます。たとえば、水力発電所の対する文化的感情がどのように変化していったかを丁寧にたどった研究発表は興味深いものでした。

しかし、その水力発電所がなぜ建設され、どのような仕組みとなっているか、そして、今後、水力発電所をどのようにすればよいのかについては、自然科学の知識が必須です。文学研究の側も、自然科学(生態学はもちろん、工学・農学も)の知識をある程度身に付け、自然科学研究者と連携してゆくことが不可欠と思いました。

もちろん、日本文学研究から、アイスランドの氷河融解に関する自然科学的研究に一足飛びに向かうということは困難ですし、また方向が違うように思います。日本で蓄積されてきた生態学、水文学、流域環境学などから学べることが多くあります。Eco-Emotions on Waterの私の発表についても、事前準備の段階で、水草の研究者から、飛鳥川、吉野川、佐保川の川床を形成する岩石の性質の違いに注目することの重要性を教えられました。

AGU環境学シンポジウムで共通の土台としたバイオリージョナリズム[生命地域主義]からは、いきなり〈大きな物語〉に向かうのではなく、自分のこととして感じられる〈環境〉についての〈小さな物語〉を語ること、そして、その〈小さな物語〉を、川の流域(上流・下流)、さらに、より広いリージョン(地域)に沿って重ね合わせてゆくことが大切であることを学びました。もちろん、その〈小さな物語〉は、人によっては、日本でなくともよいと思います。AGU環境学シンポジウムでは、東南アジアやアフリカの地域を自分のこととして考えて来た社会科学者に熱意に心打たれました。私の場合、これまでフィールドとしてきた日本(のいくつかの地域)がまず、自分のこととして考えられる場所です。

AGU環境学シンポジウム、そしてEco-Emotions on Waterに参加することで、今までぼんやりしていた、自分が取り組むべき課題が鮮明になってきたように思います。

2025年6月4日水曜日

学会大会の開催方法について思うこと

 2024年度に勤務先の少し重い仕事から解放されて、学会大会に行くようにしています。日本文学の学会の開催方法は、土曜日に講演会、日曜日に研究発表会が一般的です。地方での大会の場合には1泊(また前日から2泊)して、両日参加するようにしています。しかし、東京での開催の場合は、2日続けて参加するのは体力的にも精神的にも厳しいものを感じます。

かつては学会大会に参加すると月曜日に休みをとることができました。しかし、今では15回の授業確保のため(補講はなるべく避けたい)、月曜日を休みにすることができません。授業をしながら、大学のさまざまな業務をこなし、その他に研究に関わる仕事もしていると、土日は貴重な休養日となります。

特に日曜日の研究発表会は長時間であることが多く、すべて聞くと疲れ切ったまま、月曜日からの通常の仕事に戻ることになります。

そこで、〈金曜日の夕方に講演会、土曜日に研究発表〉という開催方法もあってもよいのではないかと思います。

海外出身の研究者は、日曜日は家族と過ごす時間にしています。海外の学会大会は平日に開催されることが多いようです。この開催方法にすれば、海外出身の研究者や海外からの研究者を始め、研究発表会にエントリーする若手やそれを聞きに来る研究者も増えるのではないかと思います。

日曜日一日でも休みがとれるということであれば、本当に助かります。


2025年3月21日金曜日

研究と編集

 2018年12月に研究誌『戦争と萬葉集』を刊行するあたりから、本格的に編集の仕事する機会が増えています。以下のような本が、私が編集を担当したものです。

・青山学院大学文学部日本文学科編『留学生のための日本文学入門』(元版の私家版、2017年。のちに和泉書院、2021年)、

・同『文学交流入門』(武蔵野書院、2023年)

・プロジェクト「青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち―交流の歴史とその未来のために―」編集・発行『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』(2024年)

・青山学院大学文学部日本文学科・復旦大学外国語言文学学院日語語言文学系主催国際シンポジウム「日本文学の翻訳・翻案・アダプテーション―中国からの視点―」に基づく論集(2025年刊行予定)

こうした編集の最初の出発点は、『国文学』の特集「万葉集―その編集作業と多声性」(第49巻第8号、2004年7月)について、學燈社の編集者から助言を求められたことであったように思います。そして、編集を強く意識したのは、『国文学』の臨時増刊号「文字のちから―写本・デザイン・かな・漢字・修復―」(第52巻第10号、2007年8月)であったと思います。學燈社の編集者から、今度の臨時増刊号は「文字」で行きたい、とテーマを提示され、構想と執筆者の探索を依頼されました。責任の重さに押しつぶされそうになって、帰路の足取りが重かったことを今も覚えています。

とはいえ、『国文学』のこのふたつの特集から、その道の専門家に執筆を依頼し、その文章を読むことの楽しさを覚えました。依頼は自分が面識のある人に限りません。本や論文を読み、ぜひこの人にと思う人には、可能な限り手を尽くしてコンタクトをとりました。「文字のちから」は、日本古代から近代まで、文学だけでなく写経や筆記具、地域に西洋・中国にも及びます。編集者を通じて、執筆の内諾が伝えられると、本当に嬉しく、心躍りましたました。今でも執筆者の多くは、私が依頼主であったことに気づいていないようです。

研究を進めてゆくと、時代・領域・分野を超えて、知りたいことがどんどん広がってゆきます。しかし、自分一人の力ではそのすべてをカバーすることは不可能です。そこで、その時代・領域・分野の専門家に教えてもらう、というのが、私の編集の基本です。それはまた、私の編集の原動力となっています。

ただし、その時代・領域・分野について、自分が全く知らずに依頼することはありません。自分もある程度の知識を身に付け、また、自分の萬葉集研究・日本文学研究との関わり方を考えます。何よりも、自分が本当に知りたいことは何かを明確にしておくことが大切と思っています。ですから、その道の専門家に「丸投げ」するということはしません。

と言うと、自分が鵜飼の「鵜匠」で、執筆者は「鵜」のようです。確かにそういう面はあるかもしれません。しかし、私の場合、「鵜匠」は、あくまでも「鵜」に教えを乞う存在です。

自分の知りたいことを専門家に書いてもらい、その教えを受ける、という編集も、今後研究を広げてゆくための一つの重要な方法であると思います。そして、編集をいわば「口実」に、これまで面識のなかった研究者との交流の輪が広がることは、何物にも代えがたいことです。

2024年12月27日金曜日

『萬葉集』への道

 

冬休みに入り、書店でじっくり本を見る機会ができました。日本古典文学の棚も見るのですが、『萬葉集』について、若い人が強く心惹かれるような本が少ないことを、寂しく感じています。

私を『萬葉集』に導いたのは、中西進氏の『天智伝』(中公叢書、中央公論社、1974)と『神々と人間』(講談社現代新書、講談社、1975)でした。これらの本に触れたのは高校生のときでした。

小学校6年のときに、友人の発案で古墳を見て回るようになってから、私は考古学と古代史に興味を持つようになりました。1972年の高松塚古墳の壁画の発見で、「古代史ブーム」が起こっていたことが、友人の発案の背景にあったかもしれません。しかし、奈良から遠い北関東の中学生たちは、高松塚の壁画よりも、思いがけなく身近なところに存在している古墳のかたちや石室を面白いと思っていました。考古学者の森浩一氏の『古墳―石と土の造形』(保育社から―ブックス、保育社、1971)などの本や、大和久震平氏・塙静夫氏『栃木県の考古学』(郷土考古学叢書、吉川弘文館、1972)が私たちの導き手でした。中学に進むと、この仲間でガリ版刷りの雑誌も作りました(創刊号は地方新聞にも紹介してもらいました)。

本を読んでゆくうちに、「文献史学」という学問があることを知りました。歴史学者の門脇禎二氏や直木孝次郎氏の「文献史学」が描き出す「歴史を生きる人間像」に強く魅了されるようになりました。さらに、高校生になってからは、日本古代史だけでなく、中国史や中央アジア史にも関心を持つようになっていました。この分野にも、宮崎市定氏や岩村忍氏のような若者の心を惹きつけて止まない書き手がいました。

そうした中で私に強烈な印象を与えたのが、中西氏の『天智伝』です。時を忘れてこの本に読みふけりました。『天智伝』は、雑誌『歴史と人物』1974年6月号から9月号まで4回連載され、加筆後、中高叢書の1冊として刊行されたものです。評伝と言いつつ、内容は「歴史小説」です。静謐な文体で描き出された、7世紀の激動する国際関係の中を生きる天智天皇の孤独が、いつまでも心に残りました(新羅の武烈王・金春秋キムチュンチュのことも初めて知りました)。

2010年に『中西進著作集』第25巻(四季社)に『天智伝』が収録されたとき、私は月報にその解題を書きました。その中で以下のように記したことは、高校生の頃に感じたことに変わりありません。


■『天智伝』は小説的スタイルで叙述される。論考のスタイルでは掬(すく)い取れぬ王者の孤独に筆を届かせた。激動する歴史の渦の中を、自らの意志とかかわりなく、そしてそれを知りながらも一途に生きねばならなかった天智天皇像を示したのである。また、この小説的スタイルは七世紀の政治世界を生々しく映像化したことでも注目される。(「二つの帝王像」連載・Ⅰ)

私が『天智伝』に魅了されたのは、古代の政治世界を映像化した「歴史小説」としての面白さだけではなく、この本の基礎にある〈人間とは何か〉という問いかけが、若い私の心に突き刺さったからであったと思います。この時期に中西氏が〈人間とは何か〉を問う文学研究の模索をしていたことを、『神々と人間』、『万葉集原論』(桜楓社、1976)、『万葉集入門 その歴史と文学』(角川文庫、角川書店、1981)などを次々と読んでいく中で知りました。

私も、文学(それも古代の)を通じて〈人間とは何か〉を考えたいーーこの思いから『萬葉集』へと向かいました。戦前の萬葉学者たちのような、最初から『萬葉集』の歌そのものに魅力を覚え、しかも短歌の実作者、という行き方とは違っていました。大学生になってから、『萬葉集』の歌の深さを知るようになりましたが、高校生のときに読んでいた文学は、日本近代の小説、『三国志演義』・『史記列伝』、フランスの小説などでした。とはいえいわゆる「文学青年」ではありませんでした。

『萬葉集』は、〈人間とは何か〉という問いかけに、さまざまな方面から応じてくれる文学のように思います。自然と人間の関係、〈戦争〉と〈平和〉、貧困、人間の尊厳と〈自由〉、宗教的寛容、近代化と伝統文化、ジェンダー、テクノロジーと人間、生と死などの人間の普遍的な問題を考える手がかりが、『萬葉集』には存在しています。

この困難な時代の中で、いかに生きればよいか悩む若い人々の心を強く揺さぶるような、『萬葉集』についての本ーー私にとっての『天智伝』や『神々と人間』のような本ーーが、もっと書店の書棚に並ぶようであってほしいと強く思っています。

2024年11月17日日曜日

近代における日韓の文学交流研究の重要性

 

2024年11月16日、青山学院創立150周年記念日に、創立150周年事業の一つとして『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』(四六判、256頁、非売品)を刊行しました。

表紙の留学生が誰かわかる人は、近代韓国文学通です。今日、韓国で最も人気のある詩人のひとり・白石です。日本で最もよく知られている韓国近代詩人は尹東柱(ユンドンジュ)ですが、その尹東柱が強く心を寄せた詩人が白石でした。

白石は、青山学院高等学部英語師範科に1930年4月に入学し、1934年3月に卒業しました。1936年に初めての詩集『鹿』を自費出版しました。白石が青山学院に寄贈した詩集『鹿』は、貴重書として青山学院大学図書館本館に所蔵されています。

白石は、モダニズムの影響を受けながら、故郷の人々の暮らしや自然の情景を、感覚を交錯させて五感全てに訴えかけるようにして表現しました。また、この世を生きる小さな存在に無限の共感を寄せました。

『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』の五十嵐真希氏執筆「白石」に収録されている「白き壁があって」(五十嵐氏訳。後半部。『文章』1941年4月号所収)から。

この白きかべには

わたしのさみしい顔を見つめて

このような文字がよぎっていく

――わたしはこの世で貧しく寄る辺なく気高くさみしく生きるようにうまれてきた

  そして この世を生きてゆくのだが

  わたしの胸はあまりにも多くの熱いものに 心細いものに 愛に 悲しみに満ちあふれ

   ている

  そして今度は わたしを慰めるがごとく わたしを力尽(ず)くで追い詰めるがごとく

  目で合図をし 拳(こぶし)をふるって かかる文字がよぎっていく

――天がこの世を生み出したとき 最も尊び慈しまれるものたちはみな

  貧しく寄る辺なく気高くさみしく そしていつでもあふれんばかりの愛と悲しみのなか

   で生きるようにおつくりになったのだ

  三日月と金鳳花(きんぽうげ)とダルマエナガとロバがそうであるように

  そしてまた「フランシス・ジャム」と陶淵明(とうえんめい)と「ライナー・マリア・リ

   ルケ」がそうであるように

白石をはじめ、戦前に青山学院で学び、文学者として活躍した韓国朝鮮の留学生は、10名を超えます。『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者』たちでは、概説ののち、そのうち11名を紹介しました。

【目次】

青山学院と日韓関係(山本与志春:青山学院院長)

青山学院と朝鮮を結びキリスト教ネットワーク(松谷基和:東北学院大学教授)

青山が訓と韓国朝鮮からの留学生(佐藤由美:専修大学教授)

韓国近代文学について―青山学院との関わりを視野に入れて―(熊木勉:天理大学教授)

日本近代文学と青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち(小松靖彦:青山学院大学教授)

コラム 田栄沢の文章二つ(波田野節子:新潟県立大学名誉教授)

尹昌錫(ユンチャンソク윤창석)〔独立運動家・詩作〕(北田道也:通信制高等学校教諭)

李一(イイル이일)〔詩人〕(韓京子:青山学院大学教授)

田栄沢(チョンヨンテク전영택)〔牧師、小説家、詩人、童話翻訳者〕(芹川哲世:二松学舎大学名誉教授)

方仁根(パンイングン방인근)〔大衆作家、詩人〕(金鍾洙:慶熙大学教授)

呉天錫(オチョンソク오천석)〔教育者、詩人、童話翻訳者〕(韓京子)

朱耀燮(チュヨソプ주요섭)〔小説家〕(芹川哲世)

徐恒錫(ソハンソク서항석)〔劇作家〕(韓京子)

金永郎(キムヨンナン영랑)〔詩人〕(梁誠允:高麗大学研究教授)

朴龍喆(パクヨンチョル박용철)〔詩人、評論家〕(李承淳:詩人、執筆家、ピアニスト)

金東鳴(キムドンミョン김동명)〔詩人〕(熊木勉)

白石(ペクソク백석)〔詩人〕(五十嵐真希:翻訳家)

金素雲(キムソウン)『朝鮮詩集』と「こゝろ」について(沢知恵:歌手、ハンセン病療養所の音楽文化研究)

これほど多くの文学者たちが青山学院で学んでいたことを知ったとき、私は驚きを禁じえませんでした。また、彼らが独立への思いを胸に、文学のことばに命を託したことにことに、深い感銘を受けました。熊木勉氏が以下のようにまとめてくださったように、彼らは韓国近代文学史に大きな足跡を残しました。


[…]韓国近代文学史の流れを大きく俯瞰しながら、その中で青山学院につながる文人たちが、どのような活動をし、どのような文学の傾向を見せたかを見てきた。内容的に、彼らにほぼ共通してみられるのは、困窮する人々への共鳴、人道主義的姿勢であったと思われる。

 韓国近代文学史で重要な意味を持ついくつかの文芸誌に、青山学院の人脈が関係しうる点にも言及した。この青山学院の人脈ネット―ワークは、韓国近代文学史の形成と発展に一定の役割を果たしたと言えることであろう。(『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』43頁)

それにしても、なぜ青山学院に韓国朝鮮から多くの若者が留学してきたのか。青山学院がキリスト教の教派を問わずに留学生を受け入れており、「当時の朝鮮の排他的な教会組織や伝統に対する批判的精神を持つ学生も集まるように」なり、青山の相対的に自由な教育が留学生たちを大いに満足させたと、松谷基和氏は説明しています。松谷氏は、神学部の留学生・金在俊(キムジェジュン)のことばを紹介しています。

「青山学院といえば”自由”が連想される。学生であれ先生であれ、個人の自由、学園の自由、学問の自由、思想の自由があり、すべてが自由の雰囲気であった。水の中の魚のように自由の中で生きていたように思う。」(『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』16頁)

日本による朝鮮統治が行われる中、青山学院は理想を貫き、その自由・平等・博愛が韓国近代文学の種子を育んだと言えます。青山学院は、1923年の関東大震災のとき、井戸に毒を入れたという流言によって命の危険にさらされた朝鮮の人々に対して、すぐに支援活動を展開しています。

青山学院を「苗床」とする日韓の文学交流は、今日、青山学院関係者にもあまり知られておらす、関心も高くありません。立教大学の尹東柱の研究と顕彰、同志社大学の鄭芝溶と尹東柱の研究と顕彰のようなことは、青山学院ではあまり行われてきませんでした(『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』の執筆者のひとり・北田道也氏の研究があるだけです)。

青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者の中には、李一(イイル)のように韓国でもまだ研究が十分に進んでいない人もいます。また、金東鳴は、金素雲(キムソウン)の日本語訳に、金素雲の孫にあたる沢知恵氏が美しい曲を付けた作品「こころ」で有名ですが、その詩人としての生涯は、日本ではあまり知られていません。沢氏は、「こころ」について次のように記しています。

 金東鳴と金素雲と私。二つの国のことばをからだにもち、母国喪失の思いを抱えた三人がときを超えて生み出したのが《こころ》です。日本の苛烈な植民地支配がなければなかったうた。こんなうた、なかったほうがよかった? 抑圧ゆえに生まれた黒人霊歌やハンセン病療養所のうたと同じうめきのうた、叫びのうたであることに、私はようやく気づきました。(『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』242頁)

熊木勉氏が金東鳴の生涯と文学をわかりやすく説明しています。金東鳴は、青山学院留学時代の先輩・友人との交流によって現実逃避から脱し民族的自意識を確立して、宗教性と民族主義を調和させた、苦難に耐え抜き、「ニム」(思慕する者)を「待つ」という独自の詩を作り上げました。

この本で取り上げることができなかった李根庠(イグンサン 詩人)、秦長燮(ジンジャンソプ 児童文学者)、蔡順秉(チェスンビョン 翻訳・研究)、金溶益(キムヨンイク 小説家)、李貞善(イジョンソン シナリオ作家)や、青山学院出身との説がある(未確認)呉相淳(オサンスン)についても今後研究を進めることが必要です。

青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たちの足跡は、日本と韓国朝鮮の近代史、そして文学交流史に新たな光を当てるものです。祖父である詩人・金永郎について解説を書いてくださった梁誠允氏のことばを、この記事の最後に引きたいと思います。

[…]どのような評価軸によろうとも、海を隔て、詩を通じた新たな経験をこの先どのように紡(つむ)ぎ出し、またどう語り継ぐかは、海の向こうとこちらの私たちの手にかかっている。(『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』183頁)


2024年8月31日土曜日

日本近代における『萬葉集』受容資料の引用について

 

日本近代における『萬葉集』受容に関する資料を引用するとき、振り仮名もいっしょに引用することが重要です。

日本近代の『萬葉集』のテクストでは、読み下し文が一般的です。その読み下し方は、たとえば、『新訓萬葉集』(岩波文庫)、『作者類別年代順 萬葉集』(新潮文庫)では違っています。

ある文学者が『萬葉集』を引用しているとき、振り仮名にから、どのテクストを使っているかのか、そのテクストのその読み下しにしたがってどのような解釈をしているのかがわかります。ですから、日本近代の文学者の、『萬葉集』受容資料を引用する場合、『萬葉集』の歌の振り仮名も含めなければなりません。また、解説文の中に、振り仮名があれば、それも安易に削除してはなりません。

また、本、雑誌、新聞を、日本近代における『萬葉集』受容について資料として用いる場合も、振り仮名も一緒に引用することが望ましいと思います。本によっては、総ルビのこともあります。煩雑なため、引用の際に省略されることも多いようですが、その総ルビから、読者として誰をターゲットにしている文章なのか、という貴重な情報が得られます。さらに、『萬葉集』の人名・地名を当時どのように読み下し方をしていたかもわかります。

戦前の資料では、現在とは違った読み下し方をしていたものとして、以下の例があります。

■額田王 ぬかだのおほきみ →(現在では)ぬかたのおほきみ
■中大兄 なかちおひね   →(現在では)なかのおほえ

なお、固有名詞に振り仮名が振っていない、近代の文学者の文書を引用する際、一般向けの本では、新たに振り仮名を加えることになります。その時に、現在の読み下し方で振り仮名を付けてしまうのは問題です。

戦前の新聞は、振り仮名について不思議な振り方をしています。「作品」の「作」にだけ「さく」と振り仮名があったりします。補って読めるところは振り仮名を振っていないのでしょうか。そのため、新聞の振り仮名は省略されてしまうことが多いようです。しかし、振り仮名は全て引用しておいたほうが、のちに研究する者の助けとなると思います(特に閲覧が簡単ではないもの)。

振り仮名は「付属物」と見られがちです。本文を言語的な〈本文(テクスト)〉(簡単に言えば「内容」)に限定して考えると、確かに「付属物」のように見えてしまいます。しかし、日本近代の印刷文化の中では、振り仮名は本文の一部にほかならないと、私は思っています。

論文や本に、近代における『萬葉集』受容資料を引用するときは、振り仮名も省略せずに引くことが基本的ルールになることを願っています。

2024年8月8日木曜日

『万葉集』の外国語訳への期待

 

2018年に、山崎洋氏によって『万葉集』のセルビア語訳が刊行されています。他の言語での『万葉集』の翻訳がどのようになっているかを調べてみました。

2015年までは、小倉久美子氏が作成した「記紀万葉翻訳書リスト(暫定)」(『万葉古代学研究所年報』第15号、2017・3)という便利なデータ集があります。
万葉古代学研究年報_第15号横組_後.indd (manyo.jp)
(*この号は、『古事記』『万葉集』の翻訳研究特集となっていて貴重です)

また、それ以後、2022年までは、国際交流基金の「日本文学翻訳作品データベース」が参考になります。

独立行政法人国際交流基金 日本文学翻訳作品データベース (jpf.go.jp)

ただし、両方の資料とも、日本詩歌選のようなアンソロジーに収められた『万葉集』の翻訳は見落とされています。写真は、アメリカの現代詩人ケネス・レクスロスの英訳日本詩歌集で、私の愛読書ですが、資料には登録されていません。

とりあえず二つの資料によれば、『万葉集』の外国語訳は、戦前の1945年までは、フランス語訳、ドイツ語訳、英訳がほとんどです。少し変わったものとしてエスペラント訳があります。

(*2022年の全国大学国語国文学会冬季大会のナポリ東洋大学のアントニオ・マニエーリ氏の研究発表によれば、20世紀初頭にパチフィーコ・アルカンジェリ、下位春吉にそれぞれイタリア語訳があったとのこと。セルビアでも、詩人のミロシュ・ツルニャンスキーが、重訳ではありますが、『日本の古歌』(1928刊)に、セルビア語に訳した『万葉集』の歌を収めています)

戦後では、以上の他に、次のような言語で翻訳されています。

【西ヨーロッパ】イタリア語/スペイン語/ポルトガル語

【北欧】ノルウェー語

【中東欧】スロバキア語(*小倉リストの「スロベニア語」は「スロバキア語」の誤り)/チェコ語/ルーマニア語/セルビア語(*「日本文学翻訳作品データベース」未登録)

【東ヨーロッパ】ロシア語

【アジア】中国語/韓国語/タミル語

まだまだ広がりがあるとは言えません。特に、日本語学習や日本文学研究が盛んな地域で、翻訳されていないことを残念に思います。たとえば、以下のような言語で『万葉集』の翻訳が行われることを、私は強く期待します。

■インドネシア語(日本語学習者が中国に次いで多い)

■ベトナム語(日本語学習者が多く、『万葉集』の若手研究者もいる)

■タイ語(日本語学習者が多く、日本文学研究も盛ん)

■ベンガル語(昨年、コルカタで『万葉集』を紹介したところ、もっと知りたいという若い人々がいた。ビッショ・バロティ(タゴール国際大学)でも学生たちが『万葉集』に感銘を受けていた)

■ヒンディー語(昨年、ジャワハルラール・ネルー大学とデリー大学で授業と講演。強い興味を覚えた学生がいた。自然科学者との共同研究の可能性もある考えられる)

■ポーランド語(日本語学習者が多く、日本文学研究が盛ん)

■スロベニア語(日本と古くから交流があり、若手の日本文学研究者も出つつある)

■ウクライナ語(学生の日本文学への関心は高い。詩人レーシャ・ウクラインカの自然観との比較研究ができると興味深い)

■トルコ語(日本語・日本文学研究が盛ん)

これらの言語による『万葉集』の翻訳を期待するのは、日本語学習者や日本文学研究が盛んであることに加えて、自然観・死生観・恋歌・文学の社会性(山上憶良「貧窮問答歌」など)・口承性oralityなどのテーマでの比較研究ができる可能性があるからです。

戦前に佐佐木信綱を中心に学術振興会が『万葉集』を英訳する際、「日本精神」を諸外国に伝えることを目標としました。今日でも、『万葉集』の翻訳によって”すぐれた日本文化”を伝える、ということが言われがちです。しかし、テネシー大学のチトコ=ヂュープランティス マウゴジャタ・カロリナさんが大変心配しているように、それは『万葉集』を日本文化のブランディングに利用することにほかなりません。

むしろ、『万葉集』を知りたい・読みたい海外の若い人々に、『万葉集』を届けるための翻訳、そして、それぞれの国や民族の文学と比較しながら、人間の普遍的問題をともに考えてゆくための翻訳であってほしいと思います。

そのためには、万葉集研究者が、どのテキストがよいか、今どのような解釈が最も信頼できるか、などの基本的なところから翻訳者をサポートすることが必要です。実際に万葉集研究者の梶川信行氏と崔光準氏共編の韓国語訳(『日韓対訳『万葉集選』』新羅大学、2012)も出されるようになっています。

さらにいえば、日本語の情報を提供するだけでなく、翻訳についてもアドバイスできる語学力も、翻訳に関わる万葉集研究者には必要になってくるように思います。

2024年8月5日月曜日

〈文学交流〉第一歩

 

海外の大学で日本語・日本文学を学ぶ学生の皆さんに、講義する機会が増えてきます。

初めて講義をしたのが、2017年、リュブリャーナ大学文学部アジア研究学科日本研究専攻。リュブリャーナ大学で日本語を学ぶ学生さんたちの様子を偶然テレビで見かけたことがあり、一度訪問したいと思っていました。以前にメールのやりとりをしたことがあるアンドレイ・ベケシュ氏の縁を頼りに、訪問したいという希望を伝えたところ、ベケシュ氏と守時なぎさ氏が、学生の皆さんに講義する機会と作ってくれました。講義の最後には、スロベニアの詩人スレチュコ・コソヴェルの詩の朗読という、思いがけないプレゼントもありました。ただ、学生の皆さんが緊張していたようで、直接に会話することができませんでした。そのころの私は、学生の皆さんの緊張を解きほぐす方法を持っていませんでした。

2023年夏に国際交流基金の日本研究基盤整備プログラムの客員教員としてインド・西ベンガルのビッショ・バロティ(タゴール国際大学)日本語学科に行き、1か月、学部1年生から大学院生までの授業を担当しました。その中で学んだのは、私のほうから、ベンガル地方インドの植物、動物、文学、映画について、また、ある日本語に当たるベンガル語は何かを尋ねると、学生の皆さんと生き生きしたコミュニケーションがとれる、ということでした。「日本のウグイスに当たる鳥は何か」「日本のタチバナのような香りのよい花は何か」と聞くと、学生の皆さんは喜んで答えてくれました。また、日本語の「仕方ない」にあたるベンガル語は何か、と尋ねると、しばらく考えて、このことばでしょう、と教えてくれました。

一方的に、日本の文学や文化を教えるというのではなく、相手の文学や文化に関心を持ち、それを知りたいという姿勢を持つと、学生の皆さんは積極的に話しかけてくれます。私自身も、本やインターネットではわからないことを知る楽しさを感じます。インド滞在中、ベンガル語も少し勉強し始めましたが、学生の皆さんから生きたことばを教えられ、ますますベンガル語への関心も高まりました(今は学習はストップしていますが)。

2024年4月、セルビアのベオグラード大学文献学部東洋学科日本語・日本文学文化専攻を訪問しました。セルビアにおける日本文学の受容と日本研究の歴史に関心を持っており、また、青山学院大学とベオグラード大学で交換留学協定が締結されたので、一度、自分の眼でベオグラードを見、研究者の皆さんと交流する機会を持ちたいと思ったからです。

ダリボル・クリチュコビッチ氏が、学生の皆さんと交流する機会を作ってくれました。今回は、インドでの体験を踏まえ、自己紹介と〈文学交流〉についての説明を記した資料に、「話のタネ」を書き加えました。「話のタネ」は以下の通りです。

【皆さんが私に聞きたい(かもしれない)こと】(*質問しやすいように作った想定質問集)

■いつから、なぜ日本文学を研究しようと思ったのか?

■『万葉集』を始めとする日本文学の面白さは?

■日本文学を研究してきて、今までもっとも心に残ったことは?

■日本文学を研究することは役に立つか? よいことはあるか?

■今まで世界のどのような国に旅行しているか?

■日本文学を学ぶ者への、日本のおすすめの場所は?

■青山学院大学日本文学科には留学生はいるのか?

■交換留学生として青山学院大学に留学したとき、どんな授業が受けられるか?

■交換留学生は日本人と友だちになれるか?

■日本文学のおすすめの本は?

■三島由紀夫の作品はどうでしょうか?(*海外には三島好きが多いのでこの質問)

■日本の若い人たちが中学・高校で読んでいる文学作品は何か?

■日本のポップミュージックのおすすめは?

【私から皆さんに聞きたいこと】

■セルビアの若い人たちが中学・高校で読んでいる文学作品は何でしょうか?

■皆さんの好きなセルビアの文学者や作品を教えてください。

■皆さんが好きな日本の文学、音楽、映画について教えてください。

■セルビアの多くの人たちが好きな花で何でしょうか?

■セルビアの多くの人たちがよく知っている鳥は何でしょうか?

■セルビアのおすすめの絵本を教えてください。

■大学生の皆さんが困ったと思うのはどのようときですか?

■セルビア語の「触れる」додирнутиは英語のtouchと同じ意味でしょうか? 日本語には「触(ふ)れる」と「触(さわ)る」という二つのことばがあります。セルビア語ではどうでしょうか?

■セルビア語の「心」срце(スルツ)と「魂」душа(ドゥシャ)の意味の違いを教えてください。

学生の皆さんからの質問はあまりありませんでした(学生の皆さんが質問する前に、私が答えてしまったものもありました)。しかし、学生の皆さんへの質問には、手を挙げて積極的に答えてくれました。

◇特にセルビアの人が好む花や鳥というものはない。それぞれに好きな花や鳥はあるけれども。(*ラモンドRamond seribica, serbian phenix flowerという紫の美しい花を教えてもらいました)

◇好きな文学はイボ・アンドリッチとミロシュ・ツルニャンスキー(*確かにベオグラードの書店には彼らの本が多数置いてありました)。

◇セルビア語のдодирнутиは、瞬間的に触れることを意味する。

◇「心」срцеは肉体的、「魂」душаは精神的。親切な人のことをдушаとも言う。恋愛に関して言う場合、「心」срцеは恋愛感情を表し、「魂」душаはそれよりもっと深い愛を表す。さらにдуx(ドゥフ)という「魂・霊」を表すことばがある。たとえば春の喜びをдуx пропећ(ドゥフ・プロぺチ)と言う。

とても楽しい会話ができました。〈文学交流〉は「双方向」的でなくてはならないと私は考えています。学生の皆さんとのこうしたやりとりは、まさに〈文学交流〉の第一歩と思います。

なお、冒頭の写真は、『ネズミと呼ばれた猫』というセルビアの絵本の見開きです(その中の「ウォーター・ドラゴン」というお話)。まだセルビア語が読めないのに、絵の美しさに心ひかれて、衝動買いしてしまいました。絵本は、その国、民族の文学・文化への最も魅力的な入り口と私は思っています。では、日本はどうでしょうか。ベオグラード大学の学生の皆さんには、宮澤賢治『銀河鉄道の夜』、新美南吉『ごんぎつね』を紹介しました(ベオグラード大学の学生の皆さんは『銀河鉄道の夜』も『ごんぎつね』も英訳で読んで、知っていました)。

ただ、セルビアでも日本でも、ディズニーのキャラクターのようなタッチで描かれた絵本がかなり増えています。互いの文学・文化に紹介できるような絵本がもっとあってほしいと思強く思いました。

2024年8月3日土曜日

ベオグラードの『万葉集』

 

2024年4月5日(金)に、セルビアのベオグラード大学文献学部東洋学科日本語・日本文学文化専攻で「『萬葉集』の桜と〈無常感〉について」という講演をしました。

講演後の質問の時間で、ベオグラード大学の学生の皆さんから質問を受けました。その中に「額田王、大伴坂上郎女以外で重要な女性の万葉歌人は誰でしょうか」という質問がありました。額田王と大伴坂上郎女が代表的な女性歌人であることを知った上での質問であったことに感銘を受けましたた。

講演会に来てくださった山崎洋氏(翻訳家)が、講演会後にしてくださったお話で、『万葉集』について学生の皆さんがよく知っているわけが、よくわかりました。山崎氏は、2018年に『万葉集』のセルビア語訳(抄訳)を出版しました。そしてこの本を使って、ベオグラード大学で『万葉集』を講読していたのです。

Hijade Listova, Stotine Cvetova: Izabrane Pesme iz Zabirke Manjošu [数千の葉、数百の花―歌集『万葉集』から選ばれた歌]。100首の歌が選ばれ、歌ごとに翻訳に合わせて丁寧な解説も付けられています。額田王の「熟田津に 船乗りせむと…」(巻1・8)や「あかねさす 紫野行き…」(巻1・20)など、大伴坂上郎女の「来むと言ひも 来ぬ時あるを…」(巻4・527)、「恋ひ恋ひて 逢へる時だに…」(巻4・661)なども収められている。嬉しいことに、大伴旅人の「酒を讃むる歌十三首」(巻3・338~350)も、13首全てが挙がっていて訳が付けられています。長歌、旋頭歌の重要な作品も入っています。

この本で学んでいれば、確かに額田王や大伴坂上郎女以外の女性歌人についても知りたいという心持ちになります。翻訳というものの重要性を改めて強く感じました。また、万葉集研究者も、もっと積極的に翻訳についてアシストしてよいと思いました。

セルビアでは、山崎洋氏を中心に、『古事記』や『竹取物語』の翻訳書も出版されています。さらに驚いたことに、東京大学大学院生であったマテヤ・マティッチさんが、『平家物語覚一本』の全訳を独力で2021年に完成しました。これらには、日本古典文学の翻訳への情熱が感じられます。

こうした素地の上に、日本文学を本格的に知りたいと思っているセルビアの若い人々に、日本文学を伝えることも、日本文学研究者に重要な役割であると思いました。

ちなみに、学生の質問に対して、私は少々慌てて、鏡王女(かがみのおおきみ)、笠女郎(かさのいらつめ)、山口女王(やまぐちのおおきみ)と回答しました。ホテルに戻ってから、紀女郎(きのいらつめ)を忘れていたことに気づきました。紀女郎は『万葉集』のジェンダーを軽々と超えてしまうユニークな歌人です。斉明(皇極)天皇、持統天皇、狭野茅上娘子(さののちがみおとめ)も挙げるべきでした。

『万葉集』には多くの女性歌人が見られます。その活躍ぶりは、平安時代の女房たちに匹敵する、あるいはそれ以上かもしれません。こうした女性歌人たちを、「女性」(”女流歌人”)というジェンダーに閉じ込めてしまわずに、大胆に研究してくれる若い人々がベオグラードから出てくることを期待してやみません。

日本文学研究の国際化についての提案

日本文学研究の国際化はますます重要となっています。従来、日本文学研究の国際化というと、欧米圏の研究者の招聘や、欧米圏での日本研究者の講演などがイメージされがちです。しかし、10年前と比べて、海外出身の研究者による日本文学研究の状況は大きく変化しています。そこで、具体的に、日本文学研究の国際化の方策を提案したいと思います(*私のFacebookにも投稿しました)

1)日本国内の海外出身の日本文学研究者との間のネットワークの構築

10年前に比べて、日本の研究・教育機関に勤務する海外出身(欧米圏に限らず)の日本文学研究者は確実に増加しています。加えて、その日本文学の研究内容も変化しています。書誌学・文献学の領域にも積極的に足を踏み入れるようになっています。私も、その研究者たちから多くのことを教えられています。

しかし、その研究者たちが集まる場、情報交換する場が、現在あまり存在していないことを耳にしました。

この研究者たちの交流に積極的に取り組むべきであると思います。日本の研究・教育環境をよく知っているだけに、意見の交換もしやすく、大きな力になってくれるはずです。日本文学研究の学会には、この研究者たちが進んで研究発表ができるような環境を整えるを望みます。

2)日本と海外の若手研究間の交流の活発化

海外で日本研究を進めている大学院博士課程の大学院生やポスドクの若手研究者も徐々に増えています。若手の研究交流によって、次の時代に、日本の「国文学」の方法と海外のさまざまな日本文学研究の方法との協働が可能になると思います。

日本文学研究の学会で海外の研究者が発表すると、「国文学」の方法の手続きを踏まないため、日本の研究者はその発表に対して最初から批判的になりがちです。研究の手続きの瑕疵にばかり目を向けます。この傾向を、私ぐらいの年齢の高い研究者たちに「明日から変えよ」と言っても無理でしょう。むしろ長期的展望を持って、海外の日本文学研究者とも対話できる、協働できる若手を育成してゆくことこそが重要であると思います。

オンラインでの交流も当たり前になった今日、大学や日本文学研究学会にはこうした若手の交流を積極的に作ってほしいと願います。その交流の中で、日本の若手研究者も、国際学会へのエントリーの仕方やよりよいプレゼンテーションの方法などを身につけてゆくでしょう。

3)海外の日本研究機関の支援

欧米に限らず海外の日本研究機関には、すぐれた日本文学研究者がいます。高い日本語能力と研究意欲を持っています。ところが、特に欧米以外の研究機関では、研究・教育のリソースが十分ではありません。日本文学や日本文学研究書は、いまだに多くが紙媒体で、海外では入手が容易ではありません。そのため、インターネットで入手できる英語文献のみで、論文を書かざるを得ない人も多数います。日本語の文献を読みたい、使いたいという本音を彼らから聞いています。

また、海外の日本学科の学生たちも、日本文学に強い興味を持ちながらも、日本語の日本文学になかなかアクセスできずにいます。青山学院大学で協働授業を行った海外の大学生たちからは、もっと日本文学について知りたい声が寄せられました。

日本文学研究者たちが、日本語文献を使って研究を進められるような研究基盤の整備、また日本文学を学ぶ学生たちがもっと日本文学に触れることのできる環境の整備のお手伝いをすることは、今、日本の日本文学研究者に求められていることではないでしょうか。そのために、学会として、支援できることはたくさんあるあると思います。学会誌の紙媒体と同時のインターネット公開もその一つです。会員の権益を守るために、インターネット公開を紙媒体の発行よりも遅らせる、というのは不可解です。私は、学会費は学会員の利益のためというより、学会の成果を広く公開してゆくために、会員が持つ寄るものではないかと思っています。

以上のような提案について、全国大学国語国文学会第129回大会の総会で発言しました。全国大学国語国文学会に限らず、国際化を模索している日本文学研究のすべて学会に考えていただきたいと思っています。

2年間、日本文学科出身という異色の、青山学院大学国際センター所長として、大学の国際化についてのさまざまな経験を得ることができました。国際化には明確な方針と、それを実現するための具体的な方策と、交流する相手との信頼関係が極めて重要であることを身をもって知りました。


今後も機会があるたびに発言するとともに、自分の足元からできることに、力の限りを尽くしたいと思っています。

海外出身の研究者たちとの協働によって、日本文学の研究の地平は確実に広がってゆくことを夢見つつ。
(写真は、2024年4月5日に、セルビア・ベオグラード大学文献学部東洋学科日本語・日本文学文化専攻課程で「『萬葉集』の桜と〈無常感〉について」という講演をしたときの様子。学生さんたちの日本文学への関心の高さに驚きました)

2024年8月2日金曜日

ブログ「草行録(万葉集、詩歌、書物、文学交流など)」

ブログ「万葉集と日本人」は、2016年8月5日の投稿を最後に長らく休眠していました。今日までの間、私の情報発信の方法や、取り組みたい研究テーマが変化し、「万葉集と日本人」というテーマで記事を書くことが難しくなっていました。

2016年3月に立ち上げた「戦争と萬葉集研究会」の活動が、2023年2月に終止し、また、数年続けていたTwitterも経営者の変更を機に退会しました。

現在は、しばらく離れていたFacebookに戻り、記事を発信しています。しかし、Facebookのみでは記事が届く範囲が限られていると感じ、ブログを再開することにしました。

タイトルを「草行録(万葉集、詩歌、書物、文学交流など)」として、これまで、そして現在、私が関心を持っているトピックについて、思い付くままに発信してゆきたいと思います。

タイトルの「草行」は、「草行露宿」(道のない草むらを歩き野宿しながら旅行する〔角川新字源〕)に借りる。「草行露宿」は、『晋書』では東晋の将軍・謝玄によって打ち負かされ潰走する苻堅軍のさまを表現することばですが、仏典では耕作者の暮らしを表しています。ここでは、”道なき道”という気持ちでこのことばを使います。また、「草行」には「草書・行書」の意味も込めています。格式ばった「楷書」ではなく、気持ちのおもむくままに思うことを記録してゆきたいと思います。

2016年8月5日金曜日

軍隊教育の中の『万葉集』

近代日本における『万葉集』の受容を考える際に、重要な手がかりとなるのが、国語教科書である。近代的な教育制度によって、多くの「日本国民」が、『万葉集』を学ぶことになった。国語教科書における『万葉集』への関心は、現在高まりつつあり、少しずつ貴重な研究報告も発表され始めている。

しかし、近代日本の教育を考える上で、忘れてならないのは、軍隊教育における『万葉集』である。

日本陸軍・海軍は、文部省管轄下の初等・中等教育における以上に、早くより国語教育に力を注いでいた。日本の軍人としてのアイデンティティの確立、軍人としての教養の習得と精神修養、さらには命令書の読み書き能力の獲得のために、国語教育は重要であった。

その国語教育において重視されたのが、『万葉集』『古事記』『古今和歌集』『平家物語』『神皇正統記』『太平記』『葉隠』などの古典である。とりわけ、将校養成のためのエリート教育を行った陸軍幼年学校・陸軍予科士官学校、海軍兵学校では、大規模な古典教育が行われた。

私は、最初に靖國偕行文庫所蔵の蔵書目録を検索して、仙台幼年学校の学習資料「万葉集抄」の存在を知った。これをきっかけに、日本陸軍の国語教科書の収集や防衛省防衛研究所史料閲覧室や靖國偕行文庫で調査を進めたところ、それらに収められた『万葉集』が、私たちがイメージしがちな“軍隊教育の『万葉集』”とは、およそ違ったものであることに気づかされた。

日本陸軍では、教科書を「教程」という。陸軍幼年学校・陸軍予科士官学校の国語教科書も、最初期には「国文教程」、次いで「国語教程」、そして太平洋戦争下の1942年(昭和17)以後は「国漢文教程」という名称になっている。

『万葉集』の歌は、陸軍幼年学校の開校(1897年〈明治30〉)の翌々年(1898年)改訂の『国文教程』(陸軍中央幼年学校〈後の、陸軍予科士官学校に当たる〉用)に採られている。

・「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧(かへり)みせじ」を含む、大伴家持の長歌(巻184049)の後半部
・防人の今奉部与曾布(いままつりべのよそふ)の「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜(しこ)の御楯(みたて)と 出で立つ我は」(巻204373
の他、「名」を重んずる山上憶良の歌(巻6978)、大伴家持の歌(巻194165)の4首である。これらは日中戦争・太平洋戦争下で、「日本国民」の間で普及することになるが、陸軍ではいち早くこれらを教育に取り入れていたのである。

しかし、この4首が常に重視されていたわけではない。大正期の『国語教程』では、教材の理解を深めるための練習問題に引かれる、補助教材の位置に後退する。1928年(昭和3)の大規模な改訂によって、4首は復活する。

昭和期に『国語教程』『国漢文教程』に採られた『万葉集』は、確かに、「海行かば…」や「今日よりは…」の歌のように天皇に対して忠誠を誓う歌や、憶良や家持の歌のように「名」を重んずる歌を中核としている。

しかし、それだけではなく、1933年(昭和8)改訂の『国語教程』(陸軍士官学校予科(後の、陸軍予科士官学校に当たる〉用)では、島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評』の一部を採録し、アララギ派が秀歌とした自然の歌を挙げている。

さらに、1942年(昭和17)改訂の『国漢文教程 甲』(陸軍予科士官学校用)では、口絵に西本願寺本万葉集の巻1本文の冒頭の図版(二色刷)を挙げる。採録した歌も、驚くことに121首にも及ぶ。相聞歌を除く、『万葉集』全体が俯瞰できるようになっている。中でも、旅の歌や、自分が仕える主人との死別や、父母・友とも生別に関わる哀切な歌が、多く選ばれていることが、注目される。

朝日照る 佐太(さた)の岡べに 群れゐつつ 我が哭(な)く涙 やむ時もなし
                    (巻2177)日並皇子尊の宮の舎人(とねり)
大和へと 君が立つ日の 近づけば 野に立つ鹿も 響(とよ)みてぞ鳴く
                              (巻4569)麻田陽春

『国語教程』『国漢文教程』を編集した陸軍教官の多くは、帝国大学・高等師範などで、近代的な「文学」や「文学研究」の洗礼を受けた人々であった。彼らは、熱狂的な軍国教育ではなく、あくまでも軍人教育という枠の中ではあるが、『万葉集』を通じて、豊かな情操を育むことをめざしていたのであろう。

しかし、天皇への忠節、軍人としての「名」を尊ぶ心、国土愛を中心に据える『国語教程』『国漢文教程』全体のテキストの中では、『万葉集』の“豊かな「情」の世界”も、たちまち主君への「忠」、親への「孝」、朋友への「信」といった〈道徳〉に読み換えられてしまう。

近代日本の『万葉集』受容史においては、江戸時代に始まる、『万葉集』の歌を〈道徳〉として読む、という読み方が、伏流のように流れていた。この流れは、戦争へと確実に向かい始める1935年(昭和10)頃より、表面に現われ、『万葉集』を「文学」として読む、という読み方を、追いやってゆくことになる。

良心的に「文学」によって、豊かな情操を育もうとすればするほど、それが強固な〈道徳〉教育となってしまうという、軍隊教育における『万葉集』のあり方は、こうした近代日本の『万葉集』受容の問題を凝縮したものと言える。

*この記事の基となっているのは、私の論文「陸軍教育における『萬葉集』―陸軍幼年学校・陸軍予科士官学校の「国語教程」と学習資料から〈戦争と萬葉集〉―」(『緑岡詞林』第40号、20163)です。リンクを貼ったPDFファイルをご参照ください。

*なお、この論文の「資料5 「国語教程」の所蔵状況」に挙げたものの他、昭和館、Library of Congress(アメリカ議会図書館)でも、日本陸軍の国語教科書を所蔵しています。
○昭和館=
昭和3年印刷『国語教程 陸軍予科士官学校用 巻一』
昭和4年印刷『国語教程 陸軍予科士官学校用 巻二』
○Library of Congress=(昭和18、19年印刷の『国漢文教程』の漢文篇、参考書などは省略)
明治35年改訂『国語教程 陸軍地方幼年学校用 巻一』
明治35年改訂・再版『国語教程 陸軍地方幼年学校用 巻一』
明治35年改訂『国語教程 陸軍地方幼年学校用 巻二』
明治35年改訂・再版『国語教程 陸軍地方幼年学校用 巻二』
明治39年『国語教程 陸軍中央幼年学校予科及陸軍地方幼年学校用 巻二』
明治45年『国語教程 陸軍中央幼年学校予科及陸軍地方幼年学校用 巻三』
昭和18年『国漢文教程 甲 現代文篇 陸軍予科士官学校用』
昭和18年『国漢文教程 甲 古文篇 陸軍予科士官学校用』

*今後、海軍士官学校の『国語教科書』についても、分析を試みます。

*軍隊における国語教育については、時代・分野を超えた日本文学研究者・国語教育研究者・中国文学研究者の協力による研究が必要です。そのために、別の機会に、日本陸軍の『国文教程』『国語教程』『国漢文教程』の目次一覧を公開する予定です。

*日本陸軍の国語教科書の閲覧の機会を賜った、防衛省防衛研究所史料閲覧室、靖國偕行文庫に御礼申し上げます。

※PDFファイルの左上が読みにくくなっているところがあります。申し訳ございません。
7頁上段終わりから3行分  月一日の日清戦争…
             陸軍大臣御用掛…
             の第二軍に随行し、…
9頁上段終わりから2行目  の忠誠心の高まりを受け、…
15頁上段終わりから2行目  全体が一応俯瞰できるように…
17頁上段終わりから4行分  いたかもしれないが、…
             佐藤氏は何らかの…
             広く深く触れるための、…
              学習資料「萬葉集抄」には…
19頁上段終わりから4行分  する、「国語教程」や…
             「情」の世界〟もたちまち…
             読み換えられてしまう性質を…
             の『萬葉集』を生徒たちが…
21頁上段終わりから3行分  (三五頁)とある。…
             節も暗唱されたのであろう。…
             などに「萬葉集」という書名だけ…
27頁「資料3」の説明   ※昭和十七年印刷…
             ※①②③は、本文第四節…
             れていないことを…

2016年4月30日土曜日

『アシャの日記』―戦争下のかけがえない記録


2016年6月4日(土)・5日(日)に、青山学院大学にて、全国大学国語国文学会60周年記念大会が開催される。総合テーマは「日本とインド―文明における普遍と固有―」。4日には、スバス・ボース氏(ハーバード大学)の講演、「日本とインドを結ぶ―交流の過去・現在・未来―」をテーマとする、藏中しのぶ氏(大東文化大学)・近藤光博氏(日本女子大学)・田辺明生氏(東京大学)のパネルディスカッションがある。

この大会の準備を進める中、書店で笠井亮平氏の『インド独立の志士「朝子」』(白水社、2016)が目に留まった。日本で生まれ育ったインドの女性、アシャ・バーラティ・チョードリー(1928~)の評伝である。

アシャの父は、アーナンド・モーハン・サハーイ。日本で独立運動を進めていたサハーイは、やがて独立運動の中心的存在であったスバス・チャンドラ・ボースを支えてゆくことになった。1945年、アシャは、ボースが最高司令官である「インド国民軍」の婦人部隊に入隊し、独立運動に加わった。しかし、活躍する時を得ぬまま、大日本帝国の敗戦と「インド国民軍」の解散を迎えるのである。

現在もインドで暮らすアシャを始め、関係者への丁寧なインタビューに基づく笠井氏の労作は、スバス・チャンドラ・ボースらが進めたインド独立運動の進展と挫折を、生々しく、しかも骨太に描いている。そして、この独立運動に深く関わった日本の歴史を重く受け止めさせずにはおかない。

笠井氏の評伝の根本史料となっているのは、アシャ自身が執筆した『アシャの日記』である。評伝には、『アシャの日記』から、アシャが短歌を作ることや、台湾での特攻隊員たちとの出会いなど、非常に興味深い記事が引用されている。その全体をどうしても知りたいと思った。

『アシャの日記』の日本語版は、アシャが日本女子高等学院(昭和女子大学の前身)附属の昭和高等女学校で学んだ縁で、2010年に学校法人昭和女子大学から刊行された。しかし、この本は非売品である。笠井氏はデリー在住の人から入手したというが、私は昭和女子大学で非常勤講師を務めている縁を頼り、日本文学科の助手に調べていただき、昭和女子大学光葉同窓会のご厚意で、その1冊にたどり着くことができた。 

口絵8頁、本文200頁からなり、1943年6月14日(満15歳)1946年7月(満18歳)までの日記を収めた『アシャの日記』は、戦争の時代に、日本とインドに生きるという稀有の境遇を生き抜いた若い女性の、かけがえない記録であった(なお、『アシャの日記』は、「あとがき」の後に添えられた発行者のことばによれば、翻訳ではなく、アシャ自身が日本語で書いたものを、アシャが後に原稿用紙にまとめたものである)。

『アシャの日記』には、母国のイギリスからのインド独立を願い、それに貢献したいという純粋すぎるほど純粋な思い、独立運動を主導する「ネタージ(尊敬する指導者)」スバス・チャンドラ・ボースへの尊敬の気持ちを中心にしながら、家族を思い揺れる心や、戦争を憎む心が、抑制された筆致で表現されている。そして、一つ一つの場面がくっきりとした輪郭で描かれ、読む者に強い臨場感を感じさせる。日本の詩歌や小説を好んでいたというアシャの文章力は確かなものである。

インド国民軍の婦人部隊に加わるために、タイのバンコクに向かい途中で立ち寄った台北の旅館「千代の家」で特別攻撃隊「誠隊」(陸軍第八飛行師団)の隊員たちに出会い、その出撃を見送る場面は、感傷的ではない。むしろ、深い共感をもって、彼等の人間としての姿と、自分自身の悲しみをじっと見つめている。

*登場するのは、以下の人々。
桑原大尉[91頁〈4月27日〉]:桑原孝夫少尉(1945年4月28日に誠第三十四飛行隊として「疾風」で出撃・戦死)
草場道夫少尉[同上。アシャに漢文を書いた手ぬぐいを送る]:(『アシャの日記』に書かれているよりも後の1945年6月6日に誠第三十三飛行隊として「疾風」で出撃・戦死)
長井少尉[96頁〈4月29日〉。「アシャさん、僕等のために祈ってくださいね」と言った]:(不明)
猪俣少尉[97頁〈4月30日〉。特攻隊の護衛]:(不明。あるいは猪俣寛少尉〈飛行第二十戦隊〉か)
大野少尉[同上。特攻隊の護衛]:(不明。あるいは大野好治少尉〈飛行第二十戦隊〉か)
遠藤少尉[102頁〈5月3日〉]:(不明)
木村准尉[107頁〈5月5日〉]:(不明。なお、5月5日は特攻隊の出撃は記録されていない

アシャは、戦前の日本の教育によって培われた「愛国心」を、インド独立を願う心の原動力としている。アシャの短歌には、生まれ育った神戸の自然を愛おしみ、残してゆく弟をいたわるなど、切実なものがある。その一方で、戦争下の類型的な愛国短歌のような作品も作っている。アシャは「勝ってくるぞといさましく」を口ずさむ少女でもあった。

戦前の愛国教育が、日本の青少年だけでなく、インド独立を願う若い人々にも与えた影響について、肯定的あるいは否定的に評価することは脇に置いて、今、歴史の中できちんと捉え直すことが必要であると思われる。


戦争下の日本とインドの関係を考えさせる、貴重なこの本が、多くの人に読まれることを、心から願ってやまない。なお、「アシャ」という名前は、「希望」という意味である。

2015年5月13日水曜日

太平洋戦争開戦直前の頃















『万葉集』は、日中戦争・太平洋戦争下で、実にさまざま人々に読まれていた。

昭和14年(19398月、山本五十六は聯合艦隊司令長官に赴任する際に、『万葉集』を携えて行った(佐佐木信綱『万葉清話』、武井大助『山本元帥遺詠解説』による)。

昭和16年(19411130日付の「朝日新聞」朝刊には、「嵐の洋上で ゆかしい和歌 昭和の防人 山本海軍大将」の見出しで、山本が詠んだ短歌が紹介されている。

大君の御楯(みたて)とたゞに思ふ身は名をも命も惜しまざらなむ

この歌は、『万葉集』の次の防人歌(さきもりのうた)を踏まえたものである。

今日よりは 顧(かへり)みなくて 大君の 醜(しこ)の御楯と 出で立つ吾は
               (巻204373、今奉部与曽布(いままつりべのよそふ)

太平洋戦争開戦以後は、この防人歌を踏まえた将兵の歌が多く見られるようになるが、日中戦争の時期には、将兵が「醜の御楯」を歌に詠むことは少なかった。太平洋戦争開戦以前に、実戦部隊の最高司令官が、自分自身を「醜の御楯」と詠むことは、極めて異例のことである。

この歌は、武井大助によって、昭和16128日に、昭和天皇の開戦の大詔を拝して、感激のあまりに詠んだ歌とされたが、「朝日新聞」によれば、実際には、開戦直前に静かな決意を詠んだ歌であった。

山本は圧倒的な工業力を持つアメリカとの開戦に強く反対していた。しかし、日本政府は、昭和161126日にアメリカ政府から届いた「ハル・ノート」を受けて、28日に日米交渉の事実上の断絶を決定した。山本は開戦が決定的となった時点で、『万葉集』の防人歌の、天皇への初々しい忠誠心を拠りどころに、困難な戦争に臨もうとしたのである。

山本は昭和天皇から厚い信頼を得ていた(「新潟日報」平成26年(2014)年919日付)。その信頼に報いようとする思いを、防人歌に重ねた。

昭和18418日に戦死するまで、『万葉集』は山本の傍らにあり続けた。

                          ※

同じく開戦直前の、昭和161011日から29日に、小説家の堀辰雄は、『万葉集』を携えて、奈良を旅し、万葉びととその村を背景とする小説を制作しようとしていた。さらに、12月初にも奈良を訪れ、三輪山の麓、瓶原(みかのはら)、飛鳥を散策している。

堀は昭和16年秋の緊迫した情勢知らなかったわけではない。東京に残った妻の多恵子は、この時期にことを、後に次のように記している。

…東京では毎日防空演習に余念なく、町には号外の鈴の音がはげしく、毎日危機説におびやかされていました。
         (「辰雄の思い出」『堀辰雄 妻への手紙』新潮文庫、昭和40年)

多恵子は防空演習のことを、奈良の堀に手紙で伝えている。そして、堀は、昭和149月の、ドイツのポーランド侵攻について、鋭く反応した文章を記したように(「木の十字架」)、距離を置きながら、常に戦争の行方を敏感に意識していた。

開戦直前の時期に、堀は意識的に戦争から最も遠い場所に身を置いて、万葉の古代に沈潜することで、人間の「生と死」を見つめようとしていたのである。

万葉びととその村を背景とする小説は、ついにまとまることはなかった。しかし、この時の思索は、小品「十月」「古墳」を生み、さらにこの時期から本格化する、堀の『万葉集』の読解は、やがて昭和19年冬から20年初頃に、防人を主人公とする小説を構想させた。

当時の防人像とは全く異なり、“大君への尽忠”を一切言わない、堀の防人小説は、戦争末期の絶望的戦況の中で、次々と命を失ってゆく若き人々への、堀なりの鎮魂を意図したものである。

自らの意思に反して、前線で指揮をとることになった山本五十六、戦争から最も遠い場所で、戦争下の「生と死」を考え続けた堀辰雄、この二人が心の拠りどころとしたものが、同じ『万葉集』であったことに、深い感慨を覚えずにはいられない。

*山本五十六の『万葉集』受容については、山本五十六景仰会機関誌『清風』第31号(平成27418日)に、「山本五十六と『萬葉集』」という短い文章を寄せました。詳しくは、こちらを参照していただければ幸いです。執筆の機会を賜った、NPO法人山本五十六景仰会に感謝申し上げます。
*堀辰雄の防人小説については、『文学』(岩波書店)56月号に論文を発表します。