2024年8月5日月曜日

〈文学交流〉第一歩

 

海外の大学で日本語・日本文学を学ぶ学生の皆さんに、講義する機会が増えてきます。

初めて講義をしたのが、2017年、リュブリャーナ大学文学部アジア研究学科日本研究専攻。リュブリャーナ大学で日本語を学ぶ学生さんたちの様子を偶然テレビで見かけたことがあり、一度訪問したいと思っていました。以前にメールのやりとりをしたことがあるアンドレイ・ベケシュ氏の縁を頼りに、訪問したいという希望を伝えたところ、ベケシュ氏と守時なぎさ氏が、学生の皆さんに講義する機会と作ってくれました。講義の最後には、スロベニアの詩人スレチュコ・コソヴェルの詩の朗読という、思いがけないプレゼントもありました。ただ、学生の皆さんが緊張していたようで、直接に会話することができませんでした。そのころの私は、学生の皆さんの緊張を解きほぐす方法を持っていませんでした。

2023年夏に国際交流基金の日本研究基盤整備プログラムの客員教員としてインド・西ベンガルのビッショ・バロティ(タゴール国際大学)日本語学科に行き、1か月、学部1年生から大学院生までの授業を担当しました。その中で学んだのは、私のほうから、ベンガル地方インドの植物、動物、文学、映画について、また、ある日本語に当たるベンガル語は何かを尋ねると、学生の皆さんと生き生きしたコミュニケーションがとれる、ということでした。「日本のウグイスに当たる鳥は何か」「日本のタチバナのような香りのよい花は何か」と聞くと、学生の皆さんは喜んで答えてくれました。また、日本語の「仕方ない」にあたるベンガル語は何か、と尋ねると、しばらく考えて、このことばでしょう、と教えてくれました。

一方的に、日本の文学や文化を教えるというのではなく、相手の文学や文化に関心を持ち、それを知りたいという姿勢を持つと、学生の皆さんは積極的に話しかけてくれます。私自身も、本やインターネットではわからないことを知る楽しさを感じます。インド滞在中、ベンガル語も少し勉強し始めましたが、学生の皆さんから生きたことばを教えられ、ますますベンガル語への関心も高まりました(今は学習はストップしていますが)。

2024年4月、セルビアのベオグラード大学文献学部東洋学科日本語・日本文学文化専攻を訪問しました。セルビアにおける日本文学の受容と日本研究の歴史に関心を持っており、また、青山学院大学とベオグラード大学で交換留学協定が締結されたので、一度、自分の眼でベオグラードを見、研究者の皆さんと交流する機会を持ちたいと思ったからです。

ダリボル・クリチュコビッチ氏が、学生の皆さんと交流する機会を作ってくれました。今回は、インドでの体験を踏まえ、自己紹介と〈文学交流〉についての説明を記した資料に、「話のタネ」を書き加えました。「話のタネ」は以下の通りです。

【皆さんが私に聞きたい(かもしれない)こと】(*質問しやすいように作った想定質問集)

■いつから、なぜ日本文学を研究しようと思ったのか?

■『万葉集』を始めとする日本文学の面白さは?

■日本文学を研究してきて、今までもっとも心に残ったことは?

■日本文学を研究することは役に立つか? よいことはあるか?

■今まで世界のどのような国に旅行しているか?

■日本文学を学ぶ者への、日本のおすすめの場所は?

■青山学院大学日本文学科には留学生はいるのか?

■交換留学生として青山学院大学に留学したとき、どんな授業が受けられるか?

■交換留学生は日本人と友だちになれるか?

■日本文学のおすすめの本は?

■三島由紀夫の作品はどうでしょうか?(*海外には三島好きが多いのでこの質問)

■日本の若い人たちが中学・高校で読んでいる文学作品は何か?

■日本のポップミュージックのおすすめは?

【私から皆さんに聞きたいこと】

■セルビアの若い人たちが中学・高校で読んでいる文学作品は何でしょうか?

■皆さんの好きなセルビアの文学者や作品を教えてください。

■皆さんが好きな日本の文学、音楽、映画について教えてください。

■セルビアの多くの人たちが好きな花で何でしょうか?

■セルビアの多くの人たちがよく知っている鳥は何でしょうか?

■セルビアのおすすめの絵本を教えてください。

■大学生の皆さんが困ったと思うのはどのようときですか?

■セルビア語の「触れる」додирнутиは英語のtouchと同じ意味でしょうか? 日本語には「触(ふ)れる」と「触(さわ)る」という二つのことばがあります。セルビア語ではどうでしょうか?

■セルビア語の「心」срце(スルツ)と「魂」душа(ドゥシャ)の意味の違いを教えてください。

学生の皆さんからの質問はあまりありませんでした(学生の皆さんが質問する前に、私が答えてしまったものもありました)。しかし、学生の皆さんへの質問には、手を挙げて積極的に答えてくれました。

◇特にセルビアの人が好む花や鳥というものはない。それぞれに好きな花や鳥はあるけれども。(*ラモンドRamond seribica, serbian phenix flowerという紫の美しい花を教えてもらいました)

◇好きな文学はイボ・アンドリッチとミロシュ・ツルニャンスキー(*確かにベオグラードの書店には彼らの本が多数置いてありました)。

◇セルビア語のдодирнутиは、瞬間的に触れることを意味する。

◇「心」срцеは肉体的、「魂」душаは精神的。親切な人のことをдушаとも言う。恋愛に関して言う場合、「心」срцеは恋愛感情を表し、「魂」душаはそれよりもっと深い愛を表す。さらにдуx(ドゥフ)という「魂・霊」を表すことばがある。たとえば春の喜びをдуx пропећ(ドゥフ・プロぺチ)と言う。

とても楽しい会話ができました。〈文学交流〉は「双方向」的でなくてはならないと私は考えています。学生の皆さんとのこうしたやりとりは、まさに〈文学交流〉の第一歩と思います。

なお、冒頭の写真は、『ネズミと呼ばれた猫』というセルビアの絵本の見開きです(その中の「ウォーター・ドラゴン」というお話)。まだセルビア語が読めないのに、絵の美しさに心ひかれて、衝動買いしてしまいました。絵本は、その国、民族の文学・文化への最も魅力的な入り口と私は思っています。では、日本はどうでしょうか。ベオグラード大学の学生の皆さんには、宮澤賢治『銀河鉄道の夜』、新美南吉『ごんぎつね』を紹介しました(ベオグラード大学の学生の皆さんは『銀河鉄道の夜』も『ごんぎつね』も英訳で読んで、知っていました)。

ただ、セルビアでも日本でも、ディズニーのキャラクターのようなタッチで描かれた絵本がかなり増えています。互いの文学・文化に紹介できるような絵本がもっとあってほしいと思強く思いました。

2024年8月3日土曜日

ベオグラードの『万葉集』

 

2024年4月5日(金)に、セルビアのベオグラード大学文献学部東洋学科日本語・日本文学文化専攻で「『萬葉集』の桜と〈無常感〉について」という講演をしました。

講演後の質問の時間で、ベオグラード大学の学生の皆さんから質問を受けました。その中に「額田王、大伴坂上郎女以外で重要な女性の万葉歌人は誰でしょうか」という質問がありました。額田王と大伴坂上郎女が代表的な女性歌人であることを知った上での質問であったことに感銘を受けましたた。

講演会に来てくださった山崎洋氏(翻訳家)が、講演会後にしてくださったお話で、『万葉集』について学生の皆さんがよく知っているわけが、よくわかりました。山崎氏は、2018年に『万葉集』のセルビア語訳(抄訳)を出版しました。そしてこの本を使って、ベオグラード大学で『万葉集』を講読していたのです。

Hijade Listova, Stotine Cvetova: Izabrane Pesme iz Zabirke Manjošu [数千の葉、数百の花―歌集『万葉集』から選ばれた歌]。100首の歌が選ばれ、歌ごとに翻訳に合わせて丁寧な解説も付けられています。額田王の「熟田津に 船乗りせむと…」(巻1・8)や「あかねさす 紫野行き…」(巻1・20)など、大伴坂上郎女の「来むと言ひも 来ぬ時あるを…」(巻4・527)、「恋ひ恋ひて 逢へる時だに…」(巻4・661)なども収められている。嬉しいことに、大伴旅人の「酒を讃むる歌十三首」(巻3・338~350)も、13首全てが挙がっていて訳が付けられています。長歌、旋頭歌の重要な作品も入っています。

この本で学んでいれば、確かに額田王や大伴坂上郎女以外の女性歌人についても知りたいという心持ちになります。翻訳というものの重要性を改めて強く感じました。また、万葉集研究者も、もっと積極的に翻訳についてアシストしてよいと思いました。

セルビアでは、山崎洋氏を中心に、『古事記』や『竹取物語』の翻訳書も出版されています。さらに驚いたことに、東京大学大学院生であったマテヤ・マティッチさんが、『平家物語覚一本』の全訳を独力で2021年に完成しました。これらには、日本古典文学の翻訳への情熱が感じられます。

こうした素地の上に、日本文学を本格的に知りたいと思っているセルビアの若い人々に、日本文学を伝えることも、日本文学研究者に重要な役割であると思いました。

ちなみに、学生の質問に対して、私は少々慌てて、鏡王女(かがみのおおきみ)、笠女郎(かさのいらつめ)、山口女王(やまぐちのおおきみ)と回答しました。ホテルに戻ってから、紀女郎(きのいらつめ)を忘れていたことに気づきました。紀女郎は『万葉集』のジェンダーを軽々と超えてしまうユニークな歌人です。斉明(皇極)天皇、持統天皇、狭野茅上娘子(さののちがみおとめ)も挙げるべきでした。

『万葉集』には多くの女性歌人が見られます。その活躍ぶりは、平安時代の女房たちに匹敵する、あるいはそれ以上かもしれません。こうした女性歌人たちを、「女性」(”女流歌人”)というジェンダーに閉じ込めてしまわずに、大胆に研究してくれる若い人々がベオグラードから出てくることを期待してやみません。

日本文学研究の国際化についての提案

日本文学研究の国際化はますます重要となっています。従来、日本文学研究の国際化というと、欧米圏の研究者の招聘や、欧米圏での日本研究者の講演などがイメージされがちです。しかし、10年前と比べて、海外出身の研究者による日本文学研究の状況は大きく変化しています。そこで、具体的に、日本文学研究の国際化の方策を提案したいと思います(*私のFacebookにも投稿しました)

1)日本国内の海外出身の日本文学研究者との間のネットワークの構築

10年前に比べて、日本の研究・教育機関に勤務する海外出身(欧米圏に限らず)の日本文学研究者は確実に増加しています。加えて、その日本文学の研究内容も変化しています。書誌学・文献学の領域にも積極的に足を踏み入れるようになっています。私も、その研究者たちから多くのことを教えられています。

しかし、その研究者たちが集まる場、情報交換する場が、現在あまり存在していないことを耳にしました。

この研究者たちの交流に積極的に取り組むべきであると思います。日本の研究・教育環境をよく知っているだけに、意見の交換もしやすく、大きな力になってくれるはずです。日本文学研究の学会には、この研究者たちが進んで研究発表ができるような環境を整えるを望みます。

2)日本と海外の若手研究間の交流の活発化

海外で日本研究を進めている大学院博士課程の大学院生やポスドクの若手研究者も徐々に増えています。若手の研究交流によって、次の時代に、日本の「国文学」の方法と海外のさまざまな日本文学研究の方法との協働が可能になると思います。

日本文学研究の学会で海外の研究者が発表すると、「国文学」の方法の手続きを踏まないため、日本の研究者はその発表に対して最初から批判的になりがちです。研究の手続きの瑕疵にばかり目を向けます。この傾向を、私ぐらいの年齢の高い研究者たちに「明日から変えよ」と言っても無理でしょう。むしろ長期的展望を持って、海外の日本文学研究者とも対話できる、協働できる若手を育成してゆくことこそが重要であると思います。

オンラインでの交流も当たり前になった今日、大学や日本文学研究学会にはこうした若手の交流を積極的に作ってほしいと願います。その交流の中で、日本の若手研究者も、国際学会へのエントリーの仕方やよりよいプレゼンテーションの方法などを身につけてゆくでしょう。

3)海外の日本研究機関の支援

欧米に限らず海外の日本研究機関には、すぐれた日本文学研究者がいます。高い日本語能力と研究意欲を持っています。ところが、特に欧米以外の研究機関では、研究・教育のリソースが十分ではありません。日本文学や日本文学研究書は、いまだに多くが紙媒体で、海外では入手が容易ではありません。そのため、インターネットで入手できる英語文献のみで、論文を書かざるを得ない人も多数います。日本語の文献を読みたい、使いたいという本音を彼らから聞いています。

また、海外の日本学科の学生たちも、日本文学に強い興味を持ちながらも、日本語の日本文学になかなかアクセスできずにいます。青山学院大学で協働授業を行った海外の大学生たちからは、もっと日本文学について知りたい声が寄せられました。

日本文学研究者たちが、日本語文献を使って研究を進められるような研究基盤の整備、また日本文学を学ぶ学生たちがもっと日本文学に触れることのできる環境の整備のお手伝いをすることは、今、日本の日本文学研究者に求められていることではないでしょうか。そのために、学会として、支援できることはたくさんあるあると思います。学会誌の紙媒体と同時のインターネット公開もその一つです。会員の権益を守るために、インターネット公開を紙媒体の発行よりも遅らせる、というのは不可解です。私は、学会費は学会員の利益のためというより、学会の成果を広く公開してゆくために、会員が持つ寄るものではないかと思っています。

以上のような提案について、全国大学国語国文学会第129回大会の総会で発言しました。全国大学国語国文学会に限らず、国際化を模索している日本文学研究のすべて学会に考えていただきたいと思っています。

2年間、日本文学科出身という異色の、青山学院大学国際センター所長として、大学の国際化についてのさまざまな経験を得ることができました。国際化には明確な方針と、それを実現するための具体的な方策と、交流する相手との信頼関係が極めて重要であることを身をもって知りました。


今後も機会があるたびに発言するとともに、自分の足元からできることに、力の限りを尽くしたいと思っています。

海外出身の研究者たちとの協働によって、日本文学の研究の地平は確実に広がってゆくことを夢見つつ。
(写真は、2024年4月5日に、セルビア・ベオグラード大学文献学部東洋学科日本語・日本文学文化専攻課程で「『萬葉集』の桜と〈無常感〉について」という講演をしたときの様子。学生さんたちの日本文学への関心の高さに驚きました)

2024年8月2日金曜日

ブログ「草行録(万葉集、詩歌、書物、文学交流など)」

ブログ「万葉集と日本人」は、2016年8月5日の投稿を最後に長らく休眠していました。今日までの間、私の情報発信の方法や、取り組みたい研究テーマが変化し、「万葉集と日本人」というテーマで記事を書くことが難しくなっていました。

2016年3月に立ち上げた「戦争と萬葉集研究会」の活動が、2023年2月に終止し、また、数年続けていたTwitterも経営者の変更を機に退会しました。

現在は、しばらく離れていたFacebookに戻り、記事を発信しています。しかし、Facebookのみでは記事が届く範囲が限られていると感じ、ブログを再開することにしました。

タイトルを「草行録(万葉集、詩歌、書物、文学交流など)」として、これまで、そして現在、私が関心を持っているトピックについて、思い付くままに発信してゆきたいと思います。

タイトルの「草行」は、「草行露宿」(道のない草むらを歩き野宿しながら旅行する〔角川新字源〕)に借りる。「草行露宿」は、『晋書』では東晋の将軍・謝玄によって打ち負かされ潰走する苻堅軍のさまを表現することばですが、仏典では耕作者の暮らしを表しています。ここでは、”道なき道”という気持ちでこのことばを使います。また、「草行」には「草書・行書」の意味も込めています。格式ばった「楷書」ではなく、気持ちのおもむくままに思うことを記録してゆきたいと思います。

2016年8月5日金曜日

軍隊教育の中の『万葉集』

近代日本における『万葉集』の受容を考える際に、重要な手がかりとなるのが、国語教科書である。近代的な教育制度によって、多くの「日本国民」が、『万葉集』を学ぶことになった。国語教科書における『万葉集』への関心は、現在高まりつつあり、少しずつ貴重な研究報告も発表され始めている。

しかし、近代日本の教育を考える上で、忘れてならないのは、軍隊教育における『万葉集』である。

日本陸軍・海軍は、文部省管轄下の初等・中等教育における以上に、早くより国語教育に力を注いでいた。日本の軍人としてのアイデンティティの確立、軍人としての教養の習得と精神修養、さらには命令書の読み書き能力の獲得のために、国語教育は重要であった。

その国語教育において重視されたのが、『万葉集』『古事記』『古今和歌集』『平家物語』『神皇正統記』『太平記』『葉隠』などの古典である。とりわけ、将校養成のためのエリート教育を行った陸軍幼年学校・陸軍予科士官学校、海軍兵学校では、大規模な古典教育が行われた。

私は、最初に靖國偕行文庫所蔵の蔵書目録を検索して、仙台幼年学校の学習資料「万葉集抄」の存在を知った。これをきっかけに、日本陸軍の国語教科書の収集や防衛省防衛研究所史料閲覧室や靖國偕行文庫で調査を進めたところ、それらに収められた『万葉集』が、私たちがイメージしがちな“軍隊教育の『万葉集』”とは、およそ違ったものであることに気づかされた。

日本陸軍では、教科書を「教程」という。陸軍幼年学校・陸軍予科士官学校の国語教科書も、最初期には「国文教程」、次いで「国語教程」、そして太平洋戦争下の1942年(昭和17)以後は「国漢文教程」という名称になっている。

『万葉集』の歌は、陸軍幼年学校の開校(1897年〈明治30〉)の翌々年(1898年)改訂の『国文教程』(陸軍中央幼年学校〈後の、陸軍予科士官学校に当たる〉用)に採られている。

・「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧(かへり)みせじ」を含む、大伴家持の長歌(巻184049)の後半部
・防人の今奉部与曾布(いままつりべのよそふ)の「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜(しこ)の御楯(みたて)と 出で立つ我は」(巻204373
の他、「名」を重んずる山上憶良の歌(巻6978)、大伴家持の歌(巻194165)の4首である。これらは日中戦争・太平洋戦争下で、「日本国民」の間で普及することになるが、陸軍ではいち早くこれらを教育に取り入れていたのである。

しかし、この4首が常に重視されていたわけではない。大正期の『国語教程』では、教材の理解を深めるための練習問題に引かれる、補助教材の位置に後退する。1928年(昭和3)の大規模な改訂によって、4首は復活する。

昭和期に『国語教程』『国漢文教程』に採られた『万葉集』は、確かに、「海行かば…」や「今日よりは…」の歌のように天皇に対して忠誠を誓う歌や、憶良や家持の歌のように「名」を重んずる歌を中核としている。

しかし、それだけではなく、1933年(昭和8)改訂の『国語教程』(陸軍士官学校予科(後の、陸軍予科士官学校に当たる〉用)では、島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評』の一部を採録し、アララギ派が秀歌とした自然の歌を挙げている。

さらに、1942年(昭和17)改訂の『国漢文教程 甲』(陸軍予科士官学校用)では、口絵に西本願寺本万葉集の巻1本文の冒頭の図版(二色刷)を挙げる。採録した歌も、驚くことに121首にも及ぶ。相聞歌を除く、『万葉集』全体が俯瞰できるようになっている。中でも、旅の歌や、自分が仕える主人との死別や、父母・友とも生別に関わる哀切な歌が、多く選ばれていることが、注目される。

朝日照る 佐太(さた)の岡べに 群れゐつつ 我が哭(な)く涙 やむ時もなし
                    (巻2177)日並皇子尊の宮の舎人(とねり)
大和へと 君が立つ日の 近づけば 野に立つ鹿も 響(とよ)みてぞ鳴く
                              (巻4569)麻田陽春

『国語教程』『国漢文教程』を編集した陸軍教官の多くは、帝国大学・高等師範などで、近代的な「文学」や「文学研究」の洗礼を受けた人々であった。彼らは、熱狂的な軍国教育ではなく、あくまでも軍人教育という枠の中ではあるが、『万葉集』を通じて、豊かな情操を育むことをめざしていたのであろう。

しかし、天皇への忠節、軍人としての「名」を尊ぶ心、国土愛を中心に据える『国語教程』『国漢文教程』全体のテキストの中では、『万葉集』の“豊かな「情」の世界”も、たちまち主君への「忠」、親への「孝」、朋友への「信」といった〈道徳〉に読み換えられてしまう。

近代日本の『万葉集』受容史においては、江戸時代に始まる、『万葉集』の歌を〈道徳〉として読む、という読み方が、伏流のように流れていた。この流れは、戦争へと確実に向かい始める1935年(昭和10)頃より、表面に現われ、『万葉集』を「文学」として読む、という読み方を、追いやってゆくことになる。

良心的に「文学」によって、豊かな情操を育もうとすればするほど、それが強固な〈道徳〉教育となってしまうという、軍隊教育における『万葉集』のあり方は、こうした近代日本の『万葉集』受容の問題を凝縮したものと言える。

*この記事の基となっているのは、私の論文「陸軍教育における『萬葉集』―陸軍幼年学校・陸軍予科士官学校の「国語教程」と学習資料から〈戦争と萬葉集〉―」(『緑岡詞林』第40号、20163)です。リンクを貼ったPDFファイルをご参照ください。

*なお、この論文の「資料5 「国語教程」の所蔵状況」に挙げたものの他、昭和館、Library of Congress(アメリカ議会図書館)でも、日本陸軍の国語教科書を所蔵しています。
○昭和館=
昭和3年印刷『国語教程 陸軍予科士官学校用 巻一』
昭和4年印刷『国語教程 陸軍予科士官学校用 巻二』
○Library of Congress=(昭和18、19年印刷の『国漢文教程』の漢文篇、参考書などは省略)
明治35年改訂『国語教程 陸軍地方幼年学校用 巻一』
明治35年改訂・再版『国語教程 陸軍地方幼年学校用 巻一』
明治35年改訂『国語教程 陸軍地方幼年学校用 巻二』
明治35年改訂・再版『国語教程 陸軍地方幼年学校用 巻二』
明治39年『国語教程 陸軍中央幼年学校予科及陸軍地方幼年学校用 巻二』
明治45年『国語教程 陸軍中央幼年学校予科及陸軍地方幼年学校用 巻三』
昭和18年『国漢文教程 甲 現代文篇 陸軍予科士官学校用』
昭和18年『国漢文教程 甲 古文篇 陸軍予科士官学校用』

*今後、海軍士官学校の『国語教科書』についても、分析を試みます。

*軍隊における国語教育については、時代・分野を超えた日本文学研究者・国語教育研究者・中国文学研究者の協力による研究が必要です。そのために、別の機会に、日本陸軍の『国文教程』『国語教程』『国漢文教程』の目次一覧を公開する予定です。

*日本陸軍の国語教科書の閲覧の機会を賜った、防衛省防衛研究所史料閲覧室、靖國偕行文庫に御礼申し上げます。

※PDFファイルの左上が読みにくくなっているところがあります。申し訳ございません。
7頁上段終わりから3行分  月一日の日清戦争…
             陸軍大臣御用掛…
             の第二軍に随行し、…
9頁上段終わりから2行目  の忠誠心の高まりを受け、…
15頁上段終わりから2行目  全体が一応俯瞰できるように…
17頁上段終わりから4行分  いたかもしれないが、…
             佐藤氏は何らかの…
             広く深く触れるための、…
              学習資料「萬葉集抄」には…
19頁上段終わりから4行分  する、「国語教程」や…
             「情」の世界〟もたちまち…
             読み換えられてしまう性質を…
             の『萬葉集』を生徒たちが…
21頁上段終わりから3行分  (三五頁)とある。…
             節も暗唱されたのであろう。…
             などに「萬葉集」という書名だけ…
27頁「資料3」の説明   ※昭和十七年印刷…
             ※①②③は、本文第四節…
             れていないことを…

2016年4月30日土曜日

『アシャの日記』―戦争下のかけがえない記録


2016年6月4日(土)・5日(日)に、青山学院大学にて、全国大学国語国文学会60周年記念大会が開催される。総合テーマは「日本とインド―文明における普遍と固有―」。4日には、スバス・ボース氏(ハーバード大学)の講演、「日本とインドを結ぶ―交流の過去・現在・未来―」をテーマとする、藏中しのぶ氏(大東文化大学)・近藤光博氏(日本女子大学)・田辺明生氏(東京大学)のパネルディスカッションがある。

この大会の準備を進める中、書店で笠井亮平氏の『インド独立の志士「朝子」』(白水社、2016)が目に留まった。日本で生まれ育ったインドの女性、アシャ・バーラティ・チョードリー(1928~)の評伝である。

アシャの父は、アーナンド・モーハン・サハーイ。日本で独立運動を進めていたサハーイは、やがて独立運動の中心的存在であったスバス・チャンドラ・ボースを支えてゆくことになった。1945年、アシャは、ボースが最高司令官である「インド国民軍」の婦人部隊に入隊し、独立運動に加わった。しかし、活躍する時を得ぬまま、大日本帝国の敗戦と「インド国民軍」の解散を迎えるのである。

現在もインドで暮らすアシャを始め、関係者への丁寧なインタビューに基づく笠井氏の労作は、スバス・チャンドラ・ボースらが進めたインド独立運動の進展と挫折を、生々しく、しかも骨太に描いている。そして、この独立運動に深く関わった日本の歴史を重く受け止めさせずにはおかない。

笠井氏の評伝の根本史料となっているのは、アシャ自身が執筆した『アシャの日記』である。評伝には、『アシャの日記』から、アシャが短歌を作ることや、台湾での特攻隊員たちとの出会いなど、非常に興味深い記事が引用されている。その全体をどうしても知りたいと思った。

『アシャの日記』の日本語版は、アシャが日本女子高等学院(昭和女子大学の前身)附属の昭和高等女学校で学んだ縁で、2010年に学校法人昭和女子大学から刊行された。しかし、この本は非売品である。笠井氏はデリー在住の人から入手したというが、私は昭和女子大学で非常勤講師を務めている縁を頼り、日本文学科の助手に調べていただき、昭和女子大学光葉同窓会のご厚意で、その1冊にたどり着くことができた。 

口絵8頁、本文200頁からなり、1943年6月14日(満15歳)1946年7月(満18歳)までの日記を収めた『アシャの日記』は、戦争の時代に、日本とインドに生きるという稀有の境遇を生き抜いた若い女性の、かけがえない記録であった(なお、『アシャの日記』は、「あとがき」の後に添えられた発行者のことばによれば、翻訳ではなく、アシャ自身が日本語で書いたものを、アシャが後に原稿用紙にまとめたものである)。

『アシャの日記』には、母国のイギリスからのインド独立を願い、それに貢献したいという純粋すぎるほど純粋な思い、独立運動を主導する「ネタージ(尊敬する指導者)」スバス・チャンドラ・ボースへの尊敬の気持ちを中心にしながら、家族を思い揺れる心や、戦争を憎む心が、抑制された筆致で表現されている。そして、一つ一つの場面がくっきりとした輪郭で描かれ、読む者に強い臨場感を感じさせる。日本の詩歌や小説を好んでいたというアシャの文章力は確かなものである。

インド国民軍の婦人部隊に加わるために、タイのバンコクに向かい途中で立ち寄った台北の旅館「千代の家」で特別攻撃隊「誠隊」(陸軍第八飛行師団)の隊員たちに出会い、その出撃を見送る場面は、感傷的ではない。むしろ、深い共感をもって、彼等の人間としての姿と、自分自身の悲しみをじっと見つめている。

*登場するのは、以下の人々。
桑原大尉[91頁〈4月27日〉]:桑原孝夫少尉(1945年4月28日に誠第三十四飛行隊として「疾風」で出撃・戦死)
草場道夫少尉[同上。アシャに漢文を書いた手ぬぐいを送る]:(『アシャの日記』に書かれているよりも後の1945年6月6日に誠第三十三飛行隊として「疾風」で出撃・戦死)
長井少尉[96頁〈4月29日〉。「アシャさん、僕等のために祈ってくださいね」と言った]:(不明)
猪俣少尉[97頁〈4月30日〉。特攻隊の護衛]:(不明。あるいは猪俣寛少尉〈飛行第二十戦隊〉か)
大野少尉[同上。特攻隊の護衛]:(不明。あるいは大野好治少尉〈飛行第二十戦隊〉か)
遠藤少尉[102頁〈5月3日〉]:(不明)
木村准尉[107頁〈5月5日〉]:(不明。なお、5月5日は特攻隊の出撃は記録されていない

アシャは、戦前の日本の教育によって培われた「愛国心」を、インド独立を願う心の原動力としている。アシャの短歌には、生まれ育った神戸の自然を愛おしみ、残してゆく弟をいたわるなど、切実なものがある。その一方で、戦争下の類型的な愛国短歌のような作品も作っている。アシャは「勝ってくるぞといさましく」を口ずさむ少女でもあった。

戦前の愛国教育が、日本の青少年だけでなく、インド独立を願う若い人々にも与えた影響について、肯定的あるいは否定的に評価することは脇に置いて、今、歴史の中できちんと捉え直すことが必要であると思われる。


戦争下の日本とインドの関係を考えさせる、貴重なこの本が、多くの人に読まれることを、心から願ってやまない。なお、「アシャ」という名前は、「希望」という意味である。

2015年5月13日水曜日

太平洋戦争開戦直前の頃















『万葉集』は、日中戦争・太平洋戦争下で、実にさまざま人々に読まれていた。

昭和14年(19398月、山本五十六は聯合艦隊司令長官に赴任する際に、『万葉集』を携えて行った(佐佐木信綱『万葉清話』、武井大助『山本元帥遺詠解説』による)。

昭和16年(19411130日付の「朝日新聞」朝刊には、「嵐の洋上で ゆかしい和歌 昭和の防人 山本海軍大将」の見出しで、山本が詠んだ短歌が紹介されている。

大君の御楯(みたて)とたゞに思ふ身は名をも命も惜しまざらなむ

この歌は、『万葉集』の次の防人歌(さきもりのうた)を踏まえたものである。

今日よりは 顧(かへり)みなくて 大君の 醜(しこ)の御楯と 出で立つ吾は
               (巻204373、今奉部与曽布(いままつりべのよそふ)

太平洋戦争開戦以後は、この防人歌を踏まえた将兵の歌が多く見られるようになるが、日中戦争の時期には、将兵が「醜の御楯」を歌に詠むことは少なかった。太平洋戦争開戦以前に、実戦部隊の最高司令官が、自分自身を「醜の御楯」と詠むことは、極めて異例のことである。

この歌は、武井大助によって、昭和16128日に、昭和天皇の開戦の大詔を拝して、感激のあまりに詠んだ歌とされたが、「朝日新聞」によれば、実際には、開戦直前に静かな決意を詠んだ歌であった。

山本は圧倒的な工業力を持つアメリカとの開戦に強く反対していた。しかし、日本政府は、昭和161126日にアメリカ政府から届いた「ハル・ノート」を受けて、28日に日米交渉の事実上の断絶を決定した。山本は開戦が決定的となった時点で、『万葉集』の防人歌の、天皇への初々しい忠誠心を拠りどころに、困難な戦争に臨もうとしたのである。

山本は昭和天皇から厚い信頼を得ていた(「新潟日報」平成26年(2014)年919日付)。その信頼に報いようとする思いを、防人歌に重ねた。

昭和18418日に戦死するまで、『万葉集』は山本の傍らにあり続けた。

                          ※

同じく開戦直前の、昭和161011日から29日に、小説家の堀辰雄は、『万葉集』を携えて、奈良を旅し、万葉びととその村を背景とする小説を制作しようとしていた。さらに、12月初にも奈良を訪れ、三輪山の麓、瓶原(みかのはら)、飛鳥を散策している。

堀は昭和16年秋の緊迫した情勢知らなかったわけではない。東京に残った妻の多恵子は、この時期にことを、後に次のように記している。

…東京では毎日防空演習に余念なく、町には号外の鈴の音がはげしく、毎日危機説におびやかされていました。
         (「辰雄の思い出」『堀辰雄 妻への手紙』新潮文庫、昭和40年)

多恵子は防空演習のことを、奈良の堀に手紙で伝えている。そして、堀は、昭和149月の、ドイツのポーランド侵攻について、鋭く反応した文章を記したように(「木の十字架」)、距離を置きながら、常に戦争の行方を敏感に意識していた。

開戦直前の時期に、堀は意識的に戦争から最も遠い場所に身を置いて、万葉の古代に沈潜することで、人間の「生と死」を見つめようとしていたのである。

万葉びととその村を背景とする小説は、ついにまとまることはなかった。しかし、この時の思索は、小品「十月」「古墳」を生み、さらにこの時期から本格化する、堀の『万葉集』の読解は、やがて昭和19年冬から20年初頃に、防人を主人公とする小説を構想させた。

当時の防人像とは全く異なり、“大君への尽忠”を一切言わない、堀の防人小説は、戦争末期の絶望的戦況の中で、次々と命を失ってゆく若き人々への、堀なりの鎮魂を意図したものである。

自らの意思に反して、前線で指揮をとることになった山本五十六、戦争から最も遠い場所で、戦争下の「生と死」を考え続けた堀辰雄、この二人が心の拠りどころとしたものが、同じ『万葉集』であったことに、深い感慨を覚えずにはいられない。

*山本五十六の『万葉集』受容については、山本五十六景仰会機関誌『清風』第31号(平成27418日)に、「山本五十六と『萬葉集』」という短い文章を寄せました。詳しくは、こちらを参照していただければ幸いです。執筆の機会を賜った、NPO法人山本五十六景仰会に感謝申し上げます。
*堀辰雄の防人小説については、『文学』(岩波書店)56月号に論文を発表します。