2024年11月17日日曜日

近代における日韓の文学交流研究の重要性

 

2024年11月16日、青山学院創立150周年記念日に、創立150周年事業の一つとして『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』(四六判、256頁、非売品)を刊行しました。

表紙の留学生が誰かわかる人は、近代韓国文学通です。今日、韓国で最も人気のある詩人のひとり・白石です。日本で最もよく知られている韓国近代詩人は尹東柱(ユンドンジュ)ですが、その尹東柱が強く心を寄せた詩人が白石でした。

白石は、青山学院高等学部英語師範科に1930年4月に入学し、1934年3月に卒業しました。1936年に初めての詩集『鹿』を自費出版しました。白石が青山学院に寄贈した詩集『鹿』は、貴重書として青山学院大学図書館本館に所蔵されています。

白石は、モダニズムの影響を受けながら、故郷の人々の暮らしや自然の情景を、感覚を交錯させて五感全てに訴えかけるようにして表現しました。また、この世を生きる小さな存在に無限の共感を寄せました。

『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』の五十嵐真希氏執筆「白石」に収録されている「白き壁があって」(五十嵐氏訳。後半部。『文章』1941年4月号所収)から。

この白きかべには

わたしのさみしい顔を見つめて

このような文字がよぎっていく

――わたしはこの世で貧しく寄る辺なく気高くさみしく生きるようにうまれてきた

  そして この世を生きてゆくのだが

  わたしの胸はあまりにも多くの熱いものに 心細いものに 愛に 悲しみに満ちあふれ

   ている

  そして今度は わたしを慰めるがごとく わたしを力尽(ず)くで追い詰めるがごとく

  目で合図をし 拳(こぶし)をふるって かかる文字がよぎっていく

――天がこの世を生み出したとき 最も尊び慈しまれるものたちはみな

  貧しく寄る辺なく気高くさみしく そしていつでもあふれんばかりの愛と悲しみのなか

   で生きるようにおつくりになったのだ

  三日月と金鳳花(きんぽうげ)とダルマエナガとロバがそうであるように

  そしてまた「フランシス・ジャム」と陶淵明(とうえんめい)と「ライナー・マリア・リ

   ルケ」がそうであるように

白石をはじめ、戦前に青山学院で学び、文学者として活躍した韓国朝鮮の留学生は、10名を超えます。『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者』たちでは、概説ののち、そのうち11名を紹介しました。

【目次】

青山学院と日韓関係(山本与志春:青山学院院長)

青山学院と朝鮮を結びキリスト教ネットワーク(松谷基和:東北学院大学教授)

青山が訓と韓国朝鮮からの留学生(佐藤由美:専修大学教授)

韓国近代文学について―青山学院との関わりを視野に入れて―(熊木勉:天理大学教授)

日本近代文学と青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち(小松靖彦:青山学院大学教授)

コラム 田栄沢の文章二つ(波田野節子:新潟県立大学名誉教授)

尹昌錫(ユンチャンソク윤창석)〔独立運動家・詩作〕(北田道也:通信制高等学校教諭)

李一(イイル이일)〔詩人〕(韓京子:青山学院大学教授)

田栄沢(チョンヨンテク전영택)〔牧師、小説家、詩人、童話翻訳者〕(芹川哲世:二松学舎大学名誉教授)

方仁根(パンイングン방인근)〔大衆作家、詩人〕(金鍾洙:慶熙大学教授)

呉天錫(オチョンソク오천석)〔教育者、詩人、童話翻訳者〕(韓京子)

朱耀燮(チュヨソプ주요섭)〔小説家〕(芹川哲世)

徐恒錫(ソハンソク서항석)〔劇作家〕(韓京子)

金永郎(キムヨンナン영랑)〔詩人〕(梁誠允:高麗大学研究教授)

朴龍喆(パクヨンチョル박용철)〔詩人、評論家〕(李承淳:詩人、執筆家、ピアニスト)

金東鳴(キムドンミョン김동명)〔詩人〕(熊木勉)

白石(ペクソク백석)〔詩人〕(五十嵐真希:翻訳家)

金素雲(キムソウン)『朝鮮詩集』と「こゝろ」について(沢知恵:歌手、ハンセン病療養所の音楽文化研究)

これほど多くの文学者たちが青山学院で学んでいたことを知ったとき、私は驚きを禁じえませんでした。また、彼らが独立への思いを胸に、文学のことばに命を託したことにことに、深い感銘を受けました。熊木勉氏が以下のようにまとめてくださったように、彼らは韓国近代文学史に大きな足跡を残しました。


[…]韓国近代文学史の流れを大きく俯瞰しながら、その中で青山学院につながる文人たちが、どのような活動をし、どのような文学の傾向を見せたかを見てきた。内容的に、彼らにほぼ共通してみられるのは、困窮する人々への共鳴、人道主義的姿勢であったと思われる。

 韓国近代文学史で重要な意味を持ついくつかの文芸誌に、青山学院の人脈が関係しうる点にも言及した。この青山学院の人脈ネット―ワークは、韓国近代文学史の形成と発展に一定の役割を果たしたと言えることであろう。(『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』43頁)

それにしても、なぜ青山学院に韓国朝鮮から多くの若者が留学してきたのか。青山学院がキリスト教の教派を問わずに留学生を受け入れており、「当時の朝鮮の排他的な教会組織や伝統に対する批判的精神を持つ学生も集まるように」なり、青山の相対的に自由な教育が留学生たちを大いに満足させたと、松谷基和氏は説明しています。松谷氏は、神学部の留学生・金在俊(キムジェジュン)のことばを紹介しています。

「青山学院といえば”自由”が連想される。学生であれ先生であれ、個人の自由、学園の自由、学問の自由、思想の自由があり、すべてが自由の雰囲気であった。水の中の魚のように自由の中で生きていたように思う。」(『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』16頁)

日本による朝鮮統治が行われる中、青山学院は理想を貫き、その自由・平等・博愛が韓国近代文学の種子を育んだと言えます。青山学院は、1923年の関東大震災のとき、井戸に毒を入れたという流言によって命の危険にさらされた朝鮮の人々に対して、すぐに支援活動を展開しています。

青山学院を「苗床」とする日韓の文学交流は、今日、青山学院関係者にもあまり知られておらす、関心も高くありません。立教大学の尹東柱の研究と顕彰、同志社大学の鄭芝溶と尹東柱の研究と顕彰のようなことは、青山学院ではあまり行われてきませんでした(『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』の執筆者のひとり・北田道也氏の研究があるだけです)。

青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者の中には、李一(イイル)のように韓国でもまだ研究が十分に進んでいない人もいます。また、金東鳴は、金素雲(キムソウン)の日本語訳に、金素雲の孫にあたる沢知恵氏が美しい曲を付けた作品「こころ」で有名ですが、その詩人としての生涯は、日本ではあまり知られていません。沢氏は、「こころ」について次のように記しています。

 金東鳴と金素雲と私。二つの国のことばをからだにもち、母国喪失の思いを抱えた三人がときを超えて生み出したのが《こころ》です。日本の苛烈な植民地支配がなければなかったうた。こんなうた、なかったほうがよかった? 抑圧ゆえに生まれた黒人霊歌やハンセン病療養所のうたと同じうめきのうた、叫びのうたであることに、私はようやく気づきました。(『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』242頁)

熊木勉氏が金東鳴の生涯と文学をわかりやすく説明しています。金東鳴は、青山学院留学時代の先輩・友人との交流によって現実逃避から脱し民族的自意識を確立して、宗教性と民族主義を調和させた、苦難に耐え抜き、「ニム」(思慕する者)を「待つ」という独自の詩を作り上げました。

この本で取り上げることができなかった李根庠(イグンサン 詩人)、秦長燮(ジンジャンソプ 児童文学者)、蔡順秉(チェスンビョン 翻訳・研究)、金溶益(キムヨンイク 小説家)、李貞善(イジョンソン シナリオ作家)や、青山学院出身との説がある(未確認)呉相淳(オサンスン)についても今後研究を進めることが必要です。

青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たちの足跡は、日本と韓国朝鮮の近代史、そして文学交流史に新たな光を当てるものです。祖父である詩人・金永郎について解説を書いてくださった梁誠允氏のことばを、この記事の最後に引きたいと思います。

[…]どのような評価軸によろうとも、海を隔て、詩を通じた新たな経験をこの先どのように紡(つむ)ぎ出し、またどう語り継ぐかは、海の向こうとこちらの私たちの手にかかっている。(『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』183頁)


*『青山学院で学んだ韓国朝鮮の文学者たち』を青山学院創立150周年記念式典会場にて配布を試みましたが、本当に関心を持ってくださったごくごく少数のかたたちにしか届きませんでした。今後は、この本をぜひ読みたいという学生や学外のかたがたに届けたいと思っています。その方法については、これから考えます。




















白石は、青山学院高等学部英語師範科に1930


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