『万葉集』は、日中戦争・太平洋戦争下で、実にさまざま人々に読まれていた。
昭和14年(1939)8月、山本五十六は聯合艦隊司令長官に赴任する際に、『万葉集』を携えて行った(佐佐木信綱『万葉清話』、武井大助『山本元帥遺詠解説』による)。
昭和16年(1941)11月30日付の「朝日新聞」朝刊には、「嵐の洋上で ゆかしい和歌 昭和の防人 山本海軍大将」の見出しで、山本が詠んだ短歌が紹介されている。
大君の御楯(みたて)とたゞに思ふ身は名をも命も惜しまざらなむ
この歌は、『万葉集』の次の防人歌(さきもりのうた)を踏まえたものである。
今日よりは 顧(かへり)みなくて 大君の 醜(しこ)の御楯と 出で立つ吾は
(巻20・4373、今奉部与曽布(いままつりべのよそふ))
太平洋戦争開戦以後は、この防人歌を踏まえた将兵の歌が多く見られるようになるが、日中戦争の時期には、将兵が「醜の御楯」を歌に詠むことは少なかった。太平洋戦争開戦以前に、実戦部隊の最高司令官が、自分自身を「醜の御楯」と詠むことは、極めて異例のことである。
この歌は、武井大助によって、昭和16年12月8日に、昭和天皇の開戦の大詔を拝して、感激のあまりに詠んだ歌とされたが、「朝日新聞」によれば、実際には、開戦直前に静かな決意を詠んだ歌であった。
山本は圧倒的な工業力を持つアメリカとの開戦に強く反対していた。しかし、日本政府は、昭和16年11月26日にアメリカ政府から届いた「ハル・ノート」を受けて、28日に日米交渉の事実上の断絶を決定した。山本は開戦が決定的となった時点で、『万葉集』の防人歌の、天皇への初々しい忠誠心を拠りどころに、困難な戦争に臨もうとしたのである。
山本は昭和天皇から厚い信頼を得ていた(「新潟日報」平成26年(2014)年9月19日付)。その信頼に報いようとする思いを、防人歌に重ねた。
昭和18年4月18日に戦死するまで、『万葉集』は山本の傍らにあり続けた。
※
同じく開戦直前の、昭和16年10月11日から29日に、小説家の堀辰雄は、『万葉集』を携えて、奈良を旅し、万葉びととその村を背景とする小説を制作しようとしていた。さらに、12月初にも奈良を訪れ、三輪山の麓、瓶原(みかのはら)、飛鳥を散策している。
堀は昭和16年秋の緊迫した情勢知らなかったわけではない。東京に残った妻の多恵子は、この時期にことを、後に次のように記している。
…東京では毎日防空演習に余念なく、町には号外の鈴の音がはげしく、毎日危機説におびやかされていました。
(「辰雄の思い出」『堀辰雄
妻への手紙』新潮文庫、昭和40年)
多恵子は防空演習のことを、奈良の堀に手紙で伝えている。そして、堀は、昭和14年9月の、ドイツのポーランド侵攻について、鋭く反応した文章を記したように(「木の十字架」)、距離を置きながら、常に戦争の行方を敏感に意識していた。
開戦直前の時期に、堀は意識的に戦争から最も遠い場所に身を置いて、万葉の古代に沈潜することで、人間の「生と死」を見つめようとしていたのである。
万葉びととその村を背景とする小説は、ついにまとまることはなかった。しかし、この時の思索は、小品「十月」「古墳」を生み、さらにこの時期から本格化する、堀の『万葉集』の読解は、やがて昭和19年冬から20年初頃に、防人を主人公とする小説を構想させた。
当時の防人像とは全く異なり、“大君への尽忠”を一切言わない、堀の防人小説は、戦争末期の絶望的戦況の中で、次々と命を失ってゆく若き人々への、堀なりの鎮魂を意図したものである。
自らの意思に反して、前線で指揮をとることになった山本五十六、戦争から最も遠い場所で、戦争下の「生と死」を考え続けた堀辰雄、この二人が心の拠りどころとしたものが、同じ『万葉集』であったことに、深い感慨を覚えずにはいられない。
*山本五十六の『万葉集』受容については、山本五十六景仰会機関誌『清風』第31号(平成27年4月18日)に、「山本五十六と『萬葉集』」という短い文章を寄せました。詳しくは、こちらを参照していただければ幸いです。執筆の機会を賜った、NPO法人山本五十六景仰会に感謝申し上げます。
*堀辰雄の防人小説については、『文学』(岩波書店)5・6月号に論文を発表します。