2025年9月3日(水)~5日(金)に開催された、ノルウェーのオスロ大学主催のEco-Emotions on Waterに参加しました。
オスロ大学人文学部の独自の日本研究と環境学とを知り、ぜひ交流を深めたいと思い、勤務先の青山学院大学とオスロ大学の間で、2023年に交換留学協定を結びました。そして、オスロ大学の研究者や学生の皆さんと直接交流する機会を持ちたいと思っていたところ、スカンジナビア・ニッポン ササカワ財団からの研究補助を得て、渡航が叶いました。
オスロ大学の窓口となったくださったアイケ・ピーター・ロッツ氏より、私の渡航予定の時期に、Eco-Emotionsの年次大会が開かれることを知らされました。参加するならば、聴くだけでなく発表し、『萬葉集』の環境学的視点からの研究成果を紹介したいと思いました。
「水」というテーマは、7月12日(土)に青山学院大学で開催したAGU環境学シンポジウム「バイオリージョナリズム[生命地域主義]を手がかりに 水、環境と開発を考える―環境をめぐる人文科学・社会科学・自然科学の対話―」の柱の一つでした。私は、こちらでは、「古代都市・平城京の水環境」というタイトルで発表しました。「国文学」の従来の「自然観」の研究ではなく、〈環境〉という視点からの研究が必要であることを説き、平城京の主要河川・佐保川から、現代都市の水環境を再考する手がかりを提案しました。
〈環境〉とは、「外界」そのものを意味するのではなく、生物の「主体」の存在や活動に、何らかの影響を与える事物の条件、つまり生物の生活に関わる範囲の「外界」を指します。そして、〈環境〉と生物の「主体」は相互に影響を与え合います。その中でも人間は、〈環境〉に自らを適応させたり、〈環境〉に影響を与えるばかりではなく、言語による〈環境〉に対する精緻な認識を基礎に、積極的に〈環境〉を改変する特異な生物です(〈環境〉の定義は、沼田眞「環境とは何か―環境観―」〈『図書』552、1992・12〉、鷲谷いづみ『自然再生 持続可能な生態系のために』〈中公新書、2004〉をもとに、小川(新姓、小松)「作為された自然―高木市之助の環境論〈文学と環境〉―」『古代文学の創造と継承』〈新典社、2011、pp. 601-602〉にまとめたものです)。
Eco-Emotions on Waterでは、Rediscovering the Power and Soundscape of Urban Rivers: A Literary Perspective from Ancient to Modern Japanと題して、佐保川だけではなく、『萬葉集』に詠まれた飛鳥(あすか)川、吉野川にも考察を拡げ、萬葉歌人たちに好んだ水景観を明らかにし、それをもとに、大岡昇平『少年』の宇田川、田口ランディ『モザイク』の渋谷川を解読した結果を発表することにしました。現代小説を加えたのは、北欧では『萬葉集』はあまり知られておらず、現代小説に論を及ぼすことによって、聴き手に、『萬葉集』の水環境を遠い過去のことではなく、現代の問題として考えてもらい、議論を引き出しやすくしたいと考えたからです。
ちなみに発表の際に、聴衆に『萬葉集』を知っている人を聞いたところ、ふたりでした。一人はオスロ大学の日本文学研究者のレベッカ・スーター氏。ヨーロッパの日本文学研究者の圧倒的多数は近現代文学を専門としています。
「水」をめぐる文化的感情についての国際学会からは、日本学やアジア研究の国際学会とは大きく異なる刺激を得られました。[以下はFacebookにも書いたことです]
Eco-Emotionsは、気候変動・環境危機をテーマとしています。初日のアイスランドの作家アンドリ・スナイル・マグナソン氏(8月に朱位昌併氏訳『氷河が融けゆく国・アイスランドの物語』〈青土社〉が刊行)の講演で、アイスランドの氷河融解が話題となったように、北欧の人々にとって気候変動・環境危機は極めて身近な、切迫した問題となっていることが感じられました。北欧の諸国とは違い、日本では原生自然はほとんど残っていません。日本の自然の多くは人間の手が入っています。そのせいもあって気候変動・環境危機に意識が向かいにくいところがあるのかと思いました。私の発表も気候変動・環境危機にまでは及んでいませんでした。大きな課題をもらったように思います。
また、「水」をめぐる世界の文学や、その研究状況についても知ることができました。この学会の中心メンバーであるステフカ・G・エリクセン氏は中世ノルウェー―アイスランド文学の写本研究者。それだけに中世ノルウェー―アイスランド文学の「水」についての発表が多くありました。また、デンマークの詩人インガー・クリステンセン、ロシアの絵本『ディンカ Dinka』のことも知りました。シリアやイランの「水」についての講演や発表も興味深く聞きました。よく引用される本としては、Bodies of Water: Postuman Feminist Phenomenology (Envioronmental Cultures)がありました。
日本文学についてのセッションWater in Japanese Literatureもありました。昭和28年台風13号についての杉浦明平のルポルタージュについての日本史研究者のエマ―・オドワイヤー氏の研究発表は興味深いものでした。台風被害を詳細に描くこのルポルタージュは、三島由紀夫に批判されたとのこと。日本研究の国際学会ではなかなか出会えない研究者と面識を得ることができたのもの収穫です。
共通の土台のもと、日本文学を通じて人間の普遍的問題に貢献する貴重な実地体験をさせてもらいました。[ここまでがFacebookに書いたこと]
その一方で、文学からの考察だけでは、気候変動・環境危機に対応できないことをも強く感じました。文学研究は、〈環境〉の改変が、人間の文化的感情にどのような影響を与えているかを示すことができます。また、気候変動・環境危機に対応するために、〈環境〉に対する考え方を大きく変える必要があることを力強く訴えることができます。たとえば、水力発電所の対する文化的感情がどのように変化していったかを丁寧にたどった研究発表は興味深いものでした。
しかし、その水力発電所がなぜ建設され、どのような仕組みとなっているか、そして、今後、水力発電所をどのようにすればよいのかについては、自然科学の知識が必須です。文学研究の側も、自然科学(生態学はもちろん、工学・農学も)の知識をある程度身に付け、自然科学研究者と連携してゆくことが不可欠と思いました。
もちろん、日本文学研究から、アイスランドの氷河融解に関する自然科学的研究に一足飛びに向かうということは困難ですし、また方向が違うように思います。日本で蓄積されてきた生態学、水文学、流域環境学などから学べることが多くあります。Eco-Emotions on Waterの私の発表についても、事前準備の段階で、水草の研究者から、飛鳥川、吉野川、佐保川の川床を形成する岩石の性質の違いに注目することの重要性を教えられました。
AGU環境学シンポジウムで共通の土台としたバイオリージョナリズム[生命地域主義]からは、いきなり〈大きな物語〉に向かうのではなく、自分のこととして感じられる〈環境〉についての〈小さな物語〉を語ること、そして、その〈小さな物語〉を、川の流域(上流・下流)、さらに、より広いリージョン(地域)に沿って重ね合わせてゆくことが大切であることを学びました。もちろん、その〈小さな物語〉は、人によっては、日本でなくともよいと思います。AGU環境学シンポジウムでは、東南アジアやアフリカの地域を自分のこととして考えて来た社会科学者に熱意に心打たれました。私の場合、これまでフィールドとしてきた日本(のいくつかの地域)がまず、自分のこととして考えられる場所です。
AGU環境学シンポジウム、そしてEco-Emotions on Waterに参加することで、今までぼんやりしていた、自分が取り組むべき課題が鮮明になってきたように思います。