冬休みに入り、書店でじっくり本を見る機会ができました。日本古典文学の棚も見るのですが、『萬葉集』について、若い人が強く心惹かれるような本が少ないことを、寂しく感じています。
私を『萬葉集』に導いたのは、中西進氏の『天智伝』(中公叢書、中央公論社、1974)と『神々と人間』(講談社現代新書、講談社、1975)でした。これらの本に触れたのは高校生のときでした。
小学校6年のときに、友人の発案で古墳を見て回るようになってから、私は考古学と古代史に興味を持つようになりました。1972年の高松塚古墳の壁画の発見で、「古代史ブーム」が起こっていたことが、友人の発案の背景にあったかもしれません。しかし、奈良から遠い北関東の中学生たちは、高松塚の壁画よりも、思いがけなく身近なところに存在している古墳のかたちや石室を面白いと思っていました。考古学者の森浩一氏の『古墳―石と土の造形』(保育社から―ブックス、保育社、1971)などの本や、大和久震平氏・塙静夫氏『栃木県の考古学』(郷土考古学叢書、吉川弘文館、1972)が私たちの導き手でした。中学に進むと、この仲間でガリ版刷りの雑誌も作りました(創刊号は地方新聞にも紹介してもらいました)。
本を読んでゆくうちに、「文献史学」という学問があることを知りました。歴史学者の門脇禎二氏や直木孝次郎氏の「文献史学」が描き出す「歴史を生きる人間像」に強く魅了されるようになりました。さらに、高校生になってからは、日本古代史だけでなく、中国史や中央アジア史にも関心を持つようになっていました。この分野にも、宮崎市定氏や岩村忍氏のような若者の心を惹きつけて止まない書き手がいました。
そうした中で私に強烈な印象を与えたのが、中西氏の『天智伝』です。時を忘れてこの本に読みふけりました。『天智伝』は、雑誌『歴史と人物』1974年6月号から9月号まで4回連載され、加筆後、中高叢書の1冊として刊行されたものです。評伝と言いつつ、内容は「歴史小説」です。静謐な文体で描き出された、7世紀の激動する国際関係の中を生きる天智天皇の孤独が、いつまでも心に残りました(新羅の武烈王・金春秋キムチュンチュのことも初めて知りました)。
2010年に『中西進著作集』第25巻(四季社)に『天智伝』が収録されたとき、私は月報にその解題を書きました。その中で以下のように記したことは、高校生の頃に感じたことに変わりありません。
■『天智伝』は小説的スタイルで叙述される。論考のスタイルでは掬(すく)い取れぬ王者の孤独に筆を届かせた。激動する歴史の渦の中を、自らの意志とかかわりなく、そしてそれを知りながらも一途に生きねばならなかった天智天皇像を示したのである。また、この小説的スタイルは七世紀の政治世界を生々しく映像化したことでも注目される。(「二つの帝王像」連載・Ⅰ)
私が『天智伝』に魅了されたのは、古代の政治世界を映像化した「歴史小説」としての面白さだけではなく、この本の基礎にある〈人間とは何か〉という問いかけが、若い私の心に突き刺さったからであったと思います。この時期に中西氏が〈人間とは何か〉を問う文学研究の模索をしていたことを、『神々と人間』、『万葉集原論』(桜楓社、1976)、『万葉集入門 その歴史と文学』(角川文庫、角川書店、1981)などを次々と読んでいく中で知りました。
私も、文学(それも古代の)を通じて〈人間とは何か〉を考えたいーーこの思いから『萬葉集』へと向かいました。戦前の萬葉学者たちのような、最初から『萬葉集』の歌そのものに魅力を覚え、しかも短歌の実作者、という行き方とは違っていました。大学生になってから、『萬葉集』の歌の深さを知るようになりましたが、高校生のときに読んでいた文学は、日本近代の小説、『三国志演義』・『史記列伝』、フランスの小説などでした。とはいえいわゆる「文学青年」ではありませんでした。
『萬葉集』は、〈人間とは何か〉という問いかけに、さまざまな方面から応じてくれる文学のように思います。自然と人間の関係、〈戦争〉と〈平和〉、貧困、人間の尊厳と〈自由〉、宗教的寛容、近代化と伝統文化、ジェンダー、テクノロジーと人間、生と死などの人間の普遍的な問題を考える手がかりが、『萬葉集』には存在しています。
この困難な時代の中で、いかに生きればよいか悩む若い人々の心を強く揺さぶるような、『萬葉集』についての本ーー私にとっての『天智伝』や『神々と人間』のような本ーーが、もっと書店の書棚に並ぶようであってほしいと強く思っています。