2016年6月4日(土)・5日(日)に、青山学院大学にて、全国大学国語国文学会60周年記念大会が開催される。総合テーマは「日本とインド―文明における普遍と固有―」。4日には、スバス・ボース氏(ハーバード大学)の講演、「日本とインドを結ぶ―交流の過去・現在・未来―」をテーマとする、藏中しのぶ氏(大東文化大学)・近藤光博氏(日本女子大学)・田辺明生氏(東京大学)のパネルディスカッションがある。
この大会の準備を進める中、書店で笠井亮平氏の『インド独立の志士「朝子」』(白水社、2016)が目に留まった。日本で生まれ育ったインドの女性、アシャ・バーラティ・チョードリー(1928~)の評伝である。
アシャの父は、アーナンド・モーハン・サハーイ。日本で独立運動を進めていたサハーイは、やがて独立運動の中心的存在であったスバス・チャンドラ・ボースを支えてゆくことになった。1945年、アシャは、ボースが最高司令官である「インド国民軍」の婦人部隊に入隊し、独立運動に加わった。しかし、活躍する時を得ぬまま、大日本帝国の敗戦と「インド国民軍」の解散を迎えるのである。
アシャの父は、アーナンド・モーハン・サハーイ。日本で独立運動を進めていたサハーイは、やがて独立運動の中心的存在であったスバス・チャンドラ・ボースを支えてゆくことになった。1945年、アシャは、ボースが最高司令官である「インド国民軍」の婦人部隊に入隊し、独立運動に加わった。しかし、活躍する時を得ぬまま、大日本帝国の敗戦と「インド国民軍」の解散を迎えるのである。
現在もインドで暮らすアシャを始め、関係者への丁寧なインタビューに基づく笠井氏の労作は、スバス・チャンドラ・ボースらが進めたインド独立運動の進展と挫折を、生々しく、しかも骨太に描いている。そして、この独立運動に深く関わった日本の歴史を重く受け止めさせずにはおかない。
笠井氏の評伝の根本史料となっているのは、アシャ自身が執筆した『アシャの日記』である。評伝には、『アシャの日記』から、アシャが短歌を作ることや、台湾での特攻隊員たちとの出会いなど、非常に興味深い記事が引用されている。その全体をどうしても知りたいと思った。
『アシャの日記』の日本語版は、アシャが日本女子高等学院(昭和女子大学の前身)附属の昭和高等女学校で学んだ縁で、2010年に学校法人昭和女子大学から刊行された。しかし、この本は非売品である。笠井氏はデリー在住の人から入手したというが、私は昭和女子大学で非常勤講師を務めている縁を頼り、日本文学科の助手に調べていただき、昭和女子大学光葉同窓会のご厚意で、その1冊にたどり着くことができた。
口絵8頁、本文200頁からなり、1943年6月14日(満15歳)1946年7月(満18歳)までの日記を収めた『アシャの日記』は、戦争の時代に、日本とインドに生きるという稀有の境遇を生き抜いた若い女性の、かけがえない記録であった(なお、『アシャの日記』は、「あとがき」の後に添えられた発行者のことばによれば、翻訳ではなく、アシャ自身が日本語で書いたものを、アシャが後に原稿用紙にまとめたものである)。
『アシャの日記』には、母国のイギリスからのインド独立を願い、それに貢献したいという純粋すぎるほど純粋な思い、独立運動を主導する「ネタージ(尊敬する指導者)」スバス・チャンドラ・ボースへの尊敬の気持ちを中心にしながら、家族を思い揺れる心や、戦争を憎む心が、抑制された筆致で表現されている。そして、一つ一つの場面がくっきりとした輪郭で描かれ、読む者に強い臨場感を感じさせる。日本の詩歌や小説を好んでいたというアシャの文章力は確かなものである。
インド国民軍の婦人部隊に加わるために、タイのバンコクに向かい途中で立ち寄った台北の旅館「千代の家」で特別攻撃隊「誠隊」(陸軍第八飛行師団)の隊員たちに出会い、その出撃を見送る場面は、感傷的ではない。むしろ、深い共感をもって、彼等の人間としての姿と、自分自身の悲しみをじっと見つめている。
*登場するのは、以下の人々。
桑原大尉[91頁〈4月27日〉]:桑原孝夫少尉(1945年4月28日に誠第三十四飛行隊として「疾風」で出撃・戦死)
草場道夫少尉[同上。アシャに漢文を書いた手ぬぐいを送る]:(『アシャの日記』に書かれているよりも後の1945年6月6日に誠第三十三飛行隊として「疾風」で出撃・戦死)
長井少尉[96頁〈4月29日〉。「アシャさん、僕等のために祈ってくださいね」と言った]:(不明)
猪俣少尉[97頁〈4月30日〉。特攻隊の護衛]:(不明。あるいは猪俣寛少尉〈飛行第二十戦隊〉か)
大野少尉[同上。特攻隊の護衛]:(不明。あるいは大野好治少尉〈飛行第二十戦隊〉か)
遠藤少尉[102頁〈5月3日〉]:(不明)
木村准尉[107頁〈5月5日〉]:(不明。なお、5月5日は特攻隊の出撃は記録されていない)
アシャは、戦前の日本の教育によって培われた「愛国心」を、インド独立を願う心の原動力としている。アシャの短歌には、生まれ育った神戸の自然を愛おしみ、残してゆく弟をいたわるなど、切実なものがある。その一方で、戦争下の類型的な愛国短歌のような作品も作っている。アシャは「勝ってくるぞといさましく」を口ずさむ少女でもあった。
戦前の愛国教育が、日本の青少年だけでなく、インド独立を願う若い人々にも与えた影響について、肯定的あるいは否定的に評価することは脇に置いて、今、歴史の中できちんと捉え直すことが必要であると思われる。
戦争下の日本とインドの関係を考えさせる、貴重なこの本が、多くの人に読まれることを、心から願ってやまない。なお、「アシャ」という名前は、「希望」という意味である。